木佐徳三郎
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8代 木佐 徳三郎(きさ とくさぶろう、旧姓・勝部、雅号・平疇[1]、1853年7月11日(嘉永6年6月6日[2][3])- 1941年(昭和16年)10月23日[4])は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員。木佐家8代当主[1]。平田銀行頭取[3][5][6]。族籍は島根県平民[3][5][6]。
経歴
[編集]出雲国出雲郡坂田村(島根県簸川郡斐川町を経て現出雲市)で、地主、7代・勝部本右衛門栄忠の六男として生まれ、楯縫郡平田村(現出雲市)の7代・木佐徳三郎の養子となり、後に家督を継承し徳三郎を襲名した[1]。幕末には最後の楯縫郡下郡役(したごおりやく)を務めた[1]。
明治維新後、楯縫郡仮郷校取締、島根県第五十三・五十四両区戸長、兼学区取締心得、平田町会議員などを務め、1892年2月の第2回衆議院議員総選挙で島根県第三区から出馬して当選し、弥生倶楽部に所属して衆議院議員を一期務めた[2][4]。
養蚕伝習所、平田製糸場を設置し、その後、平田両全製糸会社を組織して、蚕糸業の振興に尽力した[1][2]。実業界では、宍道湖水運のための蓬莱社の設立、平田銀行の設立(頭取就任)、一畑軽便鉄道の社長に就任するなどの活動を行った[1][2][4]。
家族・親族
[編集]- 木佐家
- 妻・カメ(1859年 - ?、島根、大村喜平[3]、あるいは大村喜十[5][6]の妹)
- 三男[5]あるいは二男[6]・徳之助(1890年 - 1969年)
- 五女・律(13代・絲原武太郎の妻)[5]
- 孫[6]
- 親戚
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 簸川郡私立教育会編『簸川郡偉人篤行者伝』簸川郡私立教育会、1919年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年。