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有馬氏久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
有馬氏久
時代 江戸時代中期
生誕 元禄12年(1699年
死没 明和8年2月26日1771年4月10日
別名 六左衛門
戒名 賢道義英覚源院
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従五位下備後守
主君 徳川吉宗家重
伊勢西条藩
氏族 三河渡辺氏摂津有馬氏
父母 父:渡辺恭綱、養父:有馬氏倫
兄弟 渡辺豊綱渡辺則綱氏久
戸田清勝室、中川忠和室、山高信房室、宮地周武
養兄弟:淡輪重賢
正室:堀親賢
為子(有馬光隆正室→黒田直亨正室)、倉橋久知室、氏房(次男)
養子:光隆建部政周十一男)、
氏恒堀親蔵四男)
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有馬 氏久(ありま うじひさ)は、江戸時代中期の大名伊勢国西条藩2代藩主。氏倫系有馬家2代。

生涯

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元禄12年(1699年)、紀州藩士・渡辺恭綱の子として紀伊国和歌山で誕生した。同藩士・有馬氏倫[1]の養子となる。父・恭綱は、徳川家康の孫で伊予西条松平家初代・松平頼純の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。

享保2年(1717年)6月12日、8代将軍・徳川吉宗に初謁する。享保8年(1723年)3月晦日に御小納戸役となる。享保19年(1735年)12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年(1726年)、養父・氏倫は加増によって大名に列している。

享保20年(1735年)1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。元文元年(1736年)2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、伺候席菊間広縁に定められた。元文5年(1740年)6月20日には大番頭となる。宝暦8年(1758年)6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年(1759年)6月2日に家督を養嗣子・氏恒に譲って隠居した。

明和8年(1771年)2月26日、死去した。享年73。

系譜

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寛政重修諸家譜』には実子として、正室所生の女子2人、側室所生の女子2名と男子2名(幸次郎氏房)を記載している。

父母

正室

子女

養子


延享2年(1745年)、播磨国林田藩4代藩主・建部政周の子・光隆を養嗣子とし、正室所生の長女を娶せたが、寛延2年(1749年)に廃嫡している。養子縁組解消後、長女は上総国久留里藩2代藩主・黒田直亨に再嫁した。光隆に代わり、寛延2年(1749年)に正室の兄で信濃飯田藩6代藩主・堀親蔵の子・氏恒を養嗣子に迎えている。堀家と有馬家との関係は深く、正室所生の次女は外祖母・春台院[2]の養女となっている[3]

宝暦7年(1757年)に実子の氏房が生まれている。氏房はのちに氏恒の養子として家督を継ぎ、4代藩主となっている。

脚注

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  1. ^ のちに西条藩初代藩主。
  2. ^ 津軽信政の娘、堀親賢の正室。
  3. ^ 後の倉橋内匠助久知の室となった。

出典

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