有馬氏恒
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文4年(1739年) |
死没 | 宝暦10年2月24日(1760年4月9日) |
改名 | 弥平次(通称) |
戒名 | 正源院殿覚雲義道大居士 |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下、式部少輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢西条藩主 |
氏族 | 堀氏→摂津有馬氏 |
父母 | 父:堀親蔵、養父:有馬氏久 |
兄弟 | 堀親長、堀親豊、座光寺為明、氏恒、堀親褒、安西親表、遠藤常郷 |
子 | 養子:氏房 |
有馬 氏恒(ありま うじつね)は、江戸時代中期の大名。伊勢西条藩の第3代藩主。氏倫系有馬家3代。
生涯
[編集]西条藩第2代藩主有馬氏久は、摂津国林田藩主建部家から光隆を養嗣子として迎えていたが、寛延2年(1749年)4月に光隆は廃嫡され、代わって氏恒が養嗣子となる。氏久には堀親蔵の姉妹が正室として嫁いでいた。
宝暦7年(1757年)4月1日、将軍の徳川家重に初謁する。宝暦9年(1759年)6月2日、氏久の隠居により家督を相続し、同年12月7日に従五位下式部少輔に叙せられた。しかし、藩主就任から1年足らずの宝暦10年(1760年)2月24日、22歳で死去した。跡を氏久の次男の氏房が継いだ。
系譜
[編集]父母
養子
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第四百七十