月賦百貨店
月賦百貨店(げっぷひゃっかてん)とは、割賦販売により商品を販売していた小売店のこと。百貨店とはいうものの、三越や伊勢丹などのいわゆる百貨店とは別物[1]。日本独特の形態である[2]。
概要
[編集]月賦百貨店の下地となったのは、「椀船」(漆器等の割賦販売)である。1921年に初めて店舗を構えた丸共合資商会も、椀船の行商隊をその母体としている[2]。大正から昭和にかけて、相次いで店舗が立ち並んだ。その後太平洋戦争下の戦時商業統制の対象となりいったんは途切れたものの、戦後のインフレ、統制が一段落するのにあわせ、再び姿を現す。そして昭和40年代には絶頂期を迎えることとなる[2]。
- 多彩な品揃えの商品
- 割賦販売
- 店頭で販売、資金回収
といった特徴を持つ月賦百貨店は、「高価な物は欲しいけれど一括で買えるほど現金はない」という庶民に支持され、活況を呈した[1]。最盛期には丸井[3]、緑屋、丸興、大丸百貨店[4]が業界の大手4社として数えられていた。
しかし、高度成長期による庶民の所得増加、銀行等の販売信用制度の充実により月賦百貨店の特徴は次第に薄れ、大部分の企業は経営不振により整理されていき、上記の大手4社もそれぞれ異なる道を歩むことになる[1]。
丸井はクレジットカード「赤いカード」(現エポスカード)を発行し、あわせて店舗の営業内容を(現金一括払いも扱う)一般的な百貨店に転換して小売事業を存続。さらに現在ではファッションビルとほとんど変わらないものとなった。
緑屋は西武流通グループ、丸興はダイエーグループの傘下に入り月賦百貨店事業から撤退し、店舗を順次西武百貨店・ダイエーなどに転換した。緑屋はクレディセゾンとしてセゾンカードを(UCカードもフランチャイジーとして発行)、丸興はダイエーファイナンス(SMBCファイナンスサービス・セディナ→三井住友カード)としてオーエムシーカード(→三井住友カードOMC)を発行し、以後はクレジットカードの発行と付帯業務に特化した会社となった。
大丸百貨店はラオックスと提携して一部店舗を月賦百貨店から家電量販店へ転換、社名を「井門エンタープライズ」に変更。現在は家電量販店からも撤退、不動産業が主力となった(ただし小売業からの完全撤退ではなく、現在でもグループ内にジュエリーや鉄道模型などの専門店を持つ)。
これらの経緯により、現在ではその業態や用語自体が事実上消滅しつつある。
歴史
[編集]- 1921年 - 丸共合資商会(1912年設立)が、新宿に常設店舗を構える
- 1922年 - 井門冨士逸が東京・品川で大丸商会(後の大丸百貨店)を創業
- 1929年10月8日 - 丸菱百貨店(埼玉県川口市本町)が割賦販売(洋服と家具)を開始[5][6]
- 1931年 - 青井忠治が丸二商会から独立し、中野に店舗を構える(後の丸井)
- 1934年 - 業界団体「月賦研究会」発足
- 1946年 - 丸井(ただし、月賦の再開は1950年)が再開。岡本虎三郎が岡本商店(後の緑屋、現: クレディセゾン)を創業
- 1947年 - 大丸百貨店が再開
- 1950年 - 丸興が東京・亀戸で創業
- 1957年 - 全国月賦百貨店組合連合会、設立
- 1960年 - 丸井、月賦の呼称をクレジットに改めるキャンペーンを実施。「クレジット・カード」を発行[7]
全国月賦百貨店組合連合会に加盟した店
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- 井野屋(大阪・東大阪・下関・北九州) - 加盟店で唯一、業態を維持して現存する
- 丸井
- 緑屋(現・クレディセゾン)
- 丸興(現・SMBCファイナンスサービス/セディナ)
- 大丸百貨店(現・井門グループ)
- ほくそうデパート(札幌、函館、旭川、小樽、千歳、室蘭、苫小牧、釧路、帯広、北見、稚内) - 1968年10月[8] ~ 1970年3月(倒産[9])
脚注
[編集]- ^ a b c 岡田康司『百貨店業界』教育社、1991年4月
- ^ a b c 『わが国クレジットの半世紀』社団法人 クレジット産業協会
- ^ OIOI。北海道の地場百貨店「丸井今井」とは無関係。
- ^ 大阪府に本店を構える百貨店「大丸」とは無関係。
- ^ 今日は何の日10月8日PHP研究所
- ^ 出征前の風景 川口商工会議所2006年5月号Vol.390
- ^ 日本で「クレジット」という呼称を使用したのはこれが最初。なお、「クレジット・カード」は今日の総合割賦購入あっせんを行うクレジットカードとは別物。『わが国クレジットの半世紀』社団法人 クレジット産業協会
- ^ 1968年10月当時の新聞広告
- ^ 割賦販売会社「ほくそう」も経営ゆきづまる(Internet ARChive 保管版)