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日支闘争計画

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日支闘争計画(にっしとうそうけいかく)とは、日本と支那(中華民国)を争わせ、世界戦争を誘発して日本を包囲殲滅する計画と言われるもの。コミンテルン(国際共産党、第三インターナショナル)によって考案され、コミンテルンに指導された勢力ー中国共産党[1]、日本軍部の統制派[2][3]太平洋問題調査会(IPR)[4]などによって実行されたとする見解もある。

概要

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1918年(大正7年)9月、モスクワにおいてボリシェビキの会議が開かれ、日支闘争計画案が決議された[4]。その内容は、直ちに日本と中国との内部破壊を図るとともに、中国に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカとを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し、それとともに欧州に社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画するというものであった。

「この計画案通りに、大日本帝国は日中戦争、太平洋戦争へと導かれ、滅亡した」と、この説は渡部梯治によって紹介された。

日支闘争計画の実行機関、太平洋問題調査会(IPR)

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IPRは1925年(大正14年)に設立されたロックフェラー主催の民間機関である。日本代表は新渡戸稲造松岡洋右鶴見祐輔らであり、幹事長は斉藤惣一(日本YMCA同盟総主事)であった。第3回会議は1929年(昭和4年)10月、京都で開催され、アーノルド・J・トインビーやジョン・ロックフェラー三世らが出席した。米国代表はオーエン・ラティモアであった。日本からは西園寺公一らが参画した。1936年(昭和11年)7月、カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会には牛場友彦尾崎秀実らも参画した。リヒャルト・ゾルゲ原田熊雄らもこのラインにつながっていた[4][5]

レーニンの敗戦革命論

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敗戦革命論とは、軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論[6]パリコミューンおよび帝政の倒れたロシア革命ドイツ革命のように、対外戦争を内乱に転化する、即ち戦争や内乱騒擾などによる自国の混乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させることを目指すもので、後のコミンテルン第六回大会第7回コミンテルン世界大会でも採用された。これには人民戦線戦術扇動などを用いた政策の誘導や妨害(一例として戦争当事国における開戦後の反戦運動)も含まれる。 1920年(大正9年)レーニンはモスクワ共産党細胞書記長会議で次のように述べた[2]

全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたってわれわれの基本的原則となるべき規則がある。その規則とは、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これらの諸国を互にかみ合すことである。われわれが全世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在われわれは敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互にかみ合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして、われわれが資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首をつかまなければならない

コミンテルン1928年テーゼ

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1928年(昭和3年)のコミンテルン第六回大会に於て採択された決議「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」より抜粋する[2]

多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争において決定的な意義を有する軍隊に充分の注意を払わないことである。共産主義者は、その国の軍隊が如何なる階級又は政策の武器であるかを充分に検討して、その態度を決めなければならないが、その場合決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるのではなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるか又はプロレタリア的であるかにある

「日本の陸軍は、殆んど大部分が貧農と小市民、勤労階級の子弟によって構成されている。将校も大多数が中産階級以下の出身者である、従ってその社会環境と思想傾向は、反ブルジョア的だ。だからこの陸軍を背景とした所謂国家革新運動は反資本主義的である。」このことをコミンテルンは見抜いた[2]

現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊化する傾向が増大して来ている。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えばブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない

1930年代はじめの上海で中国共産党員の指導する「日支闘争同盟」は、日本海軍の艦艇乗組員に対する反戦ビラの配布[7]もおこない、日本人民解放連盟は日本兵捕虜に対し共産主義思想の植え付けと敗戦革命を狙った思想改造(階級闘争自己批判に基づく洗脳)を施した。またこの方針は、戦後のシベリア抑留撫順戦犯管理所にも引き継がれている。

コミンテルン指令1931年

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満州事変柳条湖事件)の勃発した1931年(昭和6年)、コミンテルンは日本及び中国の共産党に対し、次の指示を出した[4]

日本と中国の対立を利用して、中国大陸への日本の進出を軍事的に失敗させ、それによって日本の革命を進めるとともに、中国内部をも改革する。来たるべき第二次世界大戦には間があるから、その間に共産革命の組織拡大を図ること。それにはまず全中国人民の抗日感情を煽り立てることが必要であり、それによって国民党と日本との妥協を不可能にする国府軍と日本軍との衝突が避けられないものとなれば、次は戦線を華北から華南方面郎にまで発展させる。それだけで日本軍のソ連包囲態勢に楔がはいり、同時に中国共産党のためには、革命への客観的条件が準備されることになる。故に国府軍と日本軍との衝突の隙に乗じて、中共の発展を策すよう諸般の行動に移るべし。

コミンテルン指令1937年

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1939年10月興亜院政務部(担当者は嘱託原口健三)が作成した、「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」「コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料」(極秘)という資料が残っている[4]。コミンテルンの指令の要旨は、

  1. あくまで局地解決を避け、日支全面衝突に導くこと(日中戦争および支那事変も参照)。 
  2. あらゆる手段を利用し、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺すること(東亜新秩序#前史藍衣社も参照)。
  3. 下層民衆を煽動して、国民政府を対日戦争開始に追い詰めること(人民戦線策動工作排日・侮日ネガティブ・キャンペーンも参照)。 
  4. 対日ボイコットを拡大し、日本を援助する国はボイコットで威嚇すること(欧米の反応ABCD包囲網太平洋問題調査会も参照)。 
  5. 紅軍国民政府軍と協力(第二次国共合作)する一方、パルチザン的行動に出ること(共産軍の山西省攻撃)。 
  6. 共産党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士及び大衆を獲得し(人民戦線戦術統一戦線も参照)、国民を凌駕する党勢に達すること(敗戦革命戦略も参照)。 

中共党はこの指令に基づき、周恩来を蔣と会見させ、国共合作、紅軍改編を申入れたとしている」(西安事件

尾崎秀実の謀略工作

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1938年(昭和13年)コミンテルンのスパイ尾崎秀実とそのグループ(ゾルゲ諜報団)は、三田村武夫[2]によれば「日華事変を長期戦に追い込むために蔣介石との和平交渉を遮断する楔として日本のかいらい政権をつくらせる」目的で、汪兆銘工作を開始した(アクティブ・メジャーズも参照)。尾崎秀実の手記[8]より引用する。

昭和十三年春には高宗武が秘に渡日し下相談が進められ松本重治等の斡旋に依り近衛内閣も直接工作に携り松本重治の友人である犬養健西園寺公一等も直接交渉の常事者として之に参加するに至りました。 私は此の工作には直接参加しなかったのですが犬養、西園寺等と友人関係にあることや近衛内閣の嘱託であったことから此の間の情況を屡々耳にし又同人等より此の工作に付き意見を求められて居りました。日支関係は全面的和平の望がなく長期戦の形を取って来るので近衛内閣としては一面蔣介石に対する未練がありながらも汪兆銘工作に力を注ぐこととなり、(以下略)[8]

さらに尾崎は対米英戦争長期化を目論んで、「東亜新秩序」建設を主張した。

私の立場から言へば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終るのでは甚だ好しくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであらうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を「東亜新秩序」創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを寵めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾することなく主張される点であります。[8]

近衛上奏文

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1943年(昭和18年)3月18日、近衛は、小林躋造海軍大将を荻外荘に招き、後継首班を引き受けて「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請し、次のように述べた。

要するに軍の革新派は出先と結托して中央の指令に服せずドンドン事変を拡大する。一面政府が可成不拡大で行かふとする工作を妨げて一図に長期戦にして仕舞ひ、遂に対米、英戦に迄追ひ込んだ。しかも夫れが戦争が目的ではなく、戦争に籍口して我国の旧慣を破壊し、革命を具現せんとするのであるから、此一派の率ひる陸軍に諸政を牛耳られては国家の前途真に深憂に堪へぬ。

翻って革新派の中核となって居る陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多い。荒木、真崎と云った皇道派の一党は手荒い所はあっても、所謂皇道派で国体を破壊する如き革新は考へて居らぬ。其云ふ所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為には手段を撰ばない。しかも次ぎ々々に後継者を養って行く。速かに之を粛清しないと危ぶないと思ふ。夫れから妙な事には、此革新派を牛耳る者が大分県人、大分閥が多いと云ふ事である。

[9]

1943年(昭和18年)4月、三田村武夫は荻外荘に近衛文麿公を訪れ、[2]

「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と言ったところ、近衛はめづらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想し、

「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに到って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする」と述懐した。

1945年(昭和20年)2月14日、近衛は昭和天皇に拝謁し、近衛上奏文を捧呈、軍内部の共産主義者[10][11]の摘発と戦争の早期終結を訴えた[2]

・・・つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

(中略)

抑々(そもそも)満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永びくがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物に御座候。

是等軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。

(中略)

昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

一方に於て徹底的に米英撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払いてもソ連と手を握るべしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を考え居る者もありとの事に御座候。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。

戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。

皇道派の理念とは「赤の排撃、ソ聯の警戒を根本的主張とし、支那事変の急速処理、南方進出の危険性、英米との開戦の不可を説くこと」であった[12]

山口富永は皇道派を擁護して、次のように主張している[12]

日本は大正末期から、コミンテルンの謀略の対象に晒され、支那事変後はナチスの謀略の対象となり、これらによって日本における全体主義思潮を煽り立てられたのであるが、ナチスの手先と思われていたソルゲ、尾崎秀実が結局はコミンテルンの手先であったのである。これらの思想が軍に浸透することを最も憂えたのが、皇道派である。その中心人物の真崎は、この謀略から必死に国軍を守ろうとしていたのである。全体主義の思想のもとに日本を戦争に引きずり込んだ統制派と、これと闘った皇道派の思想、戦略が昭和史の上に正しく検証されない限り、戦争に至った経過と、真の戦争責任を明確にすることはできないであろう。

猪木正道立花隆秦郁彦半藤一利保坂正康澤地久枝らはこうした皇道派びいきの歴史観を批判している[12]

岸信介の言葉

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岸信介三田村武夫の著書「大東亜戦争とスターリンの謀略」を読んで、次のような読後感を残している[2]

(この本を)読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ること屡々であった。

 支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀實であった、ということが、実に赤羅々に描写されているではないか。

 近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかない。

年表

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1915年(民国4年、大正4年)

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1917年(民国6年、大正6年)

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1918年(民国7年、大正7年)

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1919年(民国8年、大正8年)

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1920年(民国9年、大正9年)

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1921年(民国10年、大正10年)

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1922年(民国11年、大正11年)

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1924年(民国13年、大正13年)

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1925年(民国14年、大正14年)

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1926年(民国15年、大正15年/昭和元年)

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1927年(民国16年、昭和2年)

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1928年(民国17年、昭和3年)

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1929年(民国18年、昭和4年)

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1930年(民国19年、昭和5年)

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1931年(民国20年、昭和6年)

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1932年(民国21年、昭和7年)

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1933年(民国22年、昭和8年)

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  • 2月24日 - 国際連盟総会、「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」勧告案の採決。
  • 5月31日 - 日中間で塘沽停戦協定締結。この協定で、満州事変に一応の決着。
  • 10月 - 中国、第5次囲剿(1934年10月まで)
  • 11月 - 中国、福建事変

1934年(民国23年、昭和9年)

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1935年(民国24年、昭和10年)

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1936年(民国25年、昭和11年)

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1937年(民国26年、昭和12年)

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1938年(民国27年、昭和13年)

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1939年(民国28年、昭和14年)

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1940年(民国29年、昭和15年)

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1941年(民国30年、昭和16年)

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1942年(民国31年、昭和17年)

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1943年(民国32年、昭和18年)

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1944年(民国33年、昭和19年)

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1945年(民国34年、昭和20年)

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1946年(民国35年、昭和21年)

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1947年(民国36年、昭和22年)

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1948年(民国37年、昭和23年)

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1949年(民国38年、昭和24年)

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1950年(民国39年、昭和25年)

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1951年(民国40年、昭和26年)

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1952年(民国41年、昭和27年)

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  • 1月21日 (夜) - 白鳥事件発生
  • 4月28日 - 日華平和条約調印。同日、サンフランシスコ平和条約発効、日本は独立を回復。ただし、ソ連・現ロシアは調印拒否していることから、日露二国間の外交関係に効力は及ばない。

脚注

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  1. ^ 黒田紘一、『日中戦争の真実』、幻冬舎ルネッサンス新書、2015年
  2. ^ a b c d e f g h 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義』自由社、1987年
  3. ^ 統制派の前身となった桜会のスポンサーはスターリンであったとする見解もある。“桜会の資金元は、1923年にレーニンの指示で、吉田一がヨッフェから60万円(現在の貨幣価値で約40億円)を受け取った。この資金が後に、桜会に渡ることとなる。〈更に、この時に受け取った資金の残金が、戦後、日本社会党の結党資金となっている。”ブログ「誠」より
  4. ^ a b c d e 渡部梯治『ユダヤは日本に何をしたか』 成甲書房2003年
  5. ^ 「この頃(1939年)、日本の警察は、合衆国を通じて日本がコミンテルンと連携を保っていることを知っていた。この太平洋路線は、1935年以来、機関員、伝書使、資金の主要経路になっていた。宮城はこの道を通り、コミンテルンの援助のもとに、ゾルゲ・グループに参加する旅をしたのであった」F.D.ディーキン、『ゾルゲ追跡(下)』、岩波現代文庫、2003年、120ページ
  6. ^ 三田村武夫『戦争と共産主義 : 昭和政治秘録』民主制度普及会 1950年, p.37
  7. ^ 日支闘争同盟ビラ - 展示室ギャラリー 愛知大学記念館
  8. ^ a b c 尾崎秀実手記抜粋、昭和17年、三田村武夫「大東亜戦争とスターリンの謀略」収載
  9. ^ 伊藤隆、野村実編「海軍大将小林躋造覚書」山川出版社、173 page、近代日本史料選書3、1981年
  10. ^ 「したがって、ソルゲ事件は半分しか解明されていないことになります。共産党との関わりでしか調べていないからです。当時の日本陸軍そのものが、どれだけソ連に浸透されていたかという問題については、アンタッチャブルなのです。何も調べていない。だから、我々が見ているソルゲ事件は、実態の半分です。本当は陸軍参謀本部の人間がソルゲにどれだけ協力したか。日本の軍のなかに、どれだけソ連のスパイがいたかということが分かってはじめて真相に到達するのです。」菅原光弘、『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』、KKベストセラーズ、2013
  11. ^ 1939年9月1日にゾルゲはモスクワから次のような通信を受け取った。「私は貴下の最も緊急かつ重要な問題は数名の日本の陸軍将校の援助を得ることであると指摘した」、F.D.ディーキン、『ゾルゲ追跡(下)』、岩波現代文庫、2003年、73ページ
  12. ^ a b c 山口富永、近衛上奏文と皇道派、国民新聞社、2010年

関連項目

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