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ノート:日支闘争計画

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内容について

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立項当時の砕氷船理論と同じ問題があるように見受けられます。すなわち、出典がごく一部の著作でなおかつ、その著作にWikipedia:信頼できる情報源に欠ける面があると考えられることです。渡部梯治の著書は、「そのような主張が存在する」ことの裏付けにはなりますが、「それが歴史的事実である」ことの裏付けにはなっていません。ここで紹介されている内容は歴史学の「通説」とはされておらず、陰謀論に近い印象を受けます(コミンテルン史や日中共産党史には実証的研究が長年積み重ねられていますが、ここで記されている「指令」なるものがそうした文献に出てこなければ根拠を問われます)。また三田村武夫の著書から岸信介のコメントが引用されていますが、三田村の著書に、渡部の著書で言及された「闘争計画」の内容が記述されていなければ、単に一般的な「コミンテルン陰謀論」に対するコメントでしかありません(なお、三田村は元特別高等警察関係者であり、該当の著書は1950年に刊行されたものの改題・再刊です)。上記2点が明確にされない限りは、この記事には内容の正確性や中立性の観点で問題があると考えます。--Unamu会話2015年8月10日 (月) 00:08 (UTC)[返信]

桜会とコミンテルン

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次のような記述がある。 ww1-danro.com/militarism/sangatu.html

「レーニンは大会に出席したアナーキストの吉田一だけに声をかけた。吉田はレーニンに声をかけられ感動したせいか、アナーキズムを棄て共産主義に転向することを誓った。だが、シベリア鉄道における帰途、イルクーツクで徳田球一と喧嘩になり、アナーキズムに戻った。吉田は学歴がなく字が読めなかった。赤化防止団事件で投獄されたが、1966年まで長生きした。戦後は、徳川義親の保護をうけながら豆腐屋と自転車屋を開業したという。

共産党が結党されたのは、極東勤労者大会の6カ月後であったが、ソ連外交部はアナーキストの吉田一と連絡することを好んだ。大連会議が決裂した1922年4月以降、日ソ間の政府間の外交連絡は絶たれたが、ソ連外交部は吉田との連絡を維持した。一つには共産党国際部はコミンテルン支部(各国共産党)を担当し、政府外交部は他国政府と非共産党を担当する縄張りのためであった。

吉田一はかねてから藤田勇と懇意だった。藤田は元東京毎日新聞社長であり、また地方紙を買収するなどマスコミ界の風雲児であった。同時に自社の労働組合を懐柔する必要からアナーキストから共産主義者まで交際を深めた。それでも毎日新聞労組は懐柔に応じず、最後は会社そのものを乗っ取り、藤田を追い出した。そのあと藤田は尾張徳川家の侯爵、徳川義親の資金係や各種の情報屋になった。

藤田の交際の幅は広く、大本教の出口王仁三郎、鈴木茂三郎、加藤勘十、松岡駒吉、浅沼稲次郎とつきあった。

ソ連はヨッフェを日本に派遣することを望むと吉田一に伝えた。藤田は新聞社長のときのツテを利用して東京市長後藤新平の招待の形式をとって、1923年2月、ついに実現させた。

吉田は「ヨッフェを連れて来るために、藤田勇から頼まれて北京へ食うや食わずの旅をした。そこで60万円もらい、また旅行をして帰国し、藤田に渡した。二百円くれ、残りは藤田が自分の贅沢のために使ってしまった」と戦時中に徳川に語った(鈴木徹三『戦後社会運動史資料論ー鈴木茂三郎』大原社会問題研究所 2001)。

藤田と徳川の手元にレーニンの大金が残った。徳川義親は20万円を「大行社」の清水行之助(孫文のボディガードをやっていた)に拠出した。当時とすれば破格の巨額であり、この金が大川経由、橋本欣五郎に渡った。義親は、橋本がその金を使い、クーデターに向かうことは承知していた。橋本が清水・大川の金の出所を知らなかっただけである。

義親は社会主義者であって、貴族院の改革案として議員の「半数を華族から、半数を労働者から」と提案し、誰からも相手にされなかった経歴をもつ。他方、武力行使による領土拡大を熱心に主張しており、とりわけ南方の植民地化に情熱を燃やしていた

レーニンの金の最終的行方は、はっきりしない。陸軍省は約20万円をヤミ金として保管しており、敗戦のとき義親に返却した。義親は、その金をそのまま日本社会党の結党資金につかった。三月事件・満州事変・十月事件と日本社会党結党は同根、すなわちレーニンの金で可能となったのである。」SuzaBra会話2015年11月6日 (金) 01:05 (UTC)[返信]

吉田ー

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吉田一 よしだ-はじめ

1892-1966 大正-昭和時代の社会運動家。 明治25年8月8日生まれ。秀英舎の鍛冶工となり,水沼辰夫と知りあい労働運動にかかわる。大正10年高尾平兵衛らと労働社を結成。のちアナーキズムからはなれ,12年高尾らと戦線同盟を結成,赤化防止団長米村嘉一郎をおそって負傷した。以後,第一線からはなれた。昭和41年9月17日死去。74歳。千葉県出身。

“終戦の日、目白(徳川義親)に集った人々”サイトから plaza.rakuten.co.jp/raboku/diary/200504100001/

 吉田一とはクロポトキン派のアナーキストで過激派である。大正11年(1922)モスクワで極東民族大会が開かれた。日本から吉田一、高尾平兵衛、鈴木茂三郎、徳田球一が出席した。レーニンははったり的な徳田を信用せず、素朴な労働者の吉田や高尾を評価・信用した。

 この大正11年7/15に日本共産党が創立された。当時、「共産主義者」を「ボル」(ボルシェビーキ)といい、アナーキストを「アナ」といった。日本では「アナ」に優秀な人材が多く、レーニンは吉田や高尾に「アナ」を「ボル」に転向させるように頼んだ。その運動資金8000円を上海の共産党ビューローに送った。ところが徳田が上海に先回りしてその資金を横取りした。

 怒った吉田は徳田を泥棒よばわりして追いかけ回した。徳田は山崎今朝弥を仲裁にあやまった。しかし、以来「アナ」は「ボル」を信用せず、ますます、両者の仲が悪くなった。 SuzaBra会話2015年11月6日 (金) 01:04 (UTC)[返信]

赤化防止団

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赤化防止団 せっかぼうしだん

大正期の国家主義団体で、日本ファシズム運動の一源流。1922年(大正11)米村嘉一郎(よねむらかいちろう)が設立。共産主義の防遏(ぼうあつ)と資本家の反省を主張した。結成直後、アナキストとの立会演説会で岩佐作太郎(いわささくたろう)に日本刀で切りつけ、翌23年後藤‐ヨッフェ会談に反対して東京市長後藤新平(しんぺい)邸を襲撃するなど、テロ活動を事とした。23年6月、米村は本部に押しかけたアナキストの高尾平兵衛(たかおへいべえ)を射殺して懲役刑(執行猶予)の判決を受けた。以後、組織的行動は低調となり、まもなく消滅した。[岡部牧夫]

藤田 勇

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“終戦の日、目白(徳川義親)に集った人々”サイトから

plaza.rakuten.co.jp/raboku/diary/200504100001/

藤田勇とは、陸軍からソ連へ和平の工作を依頼されていた人物である。藤田には実績があった。大正12年(1923)ソ連外務人民委員のヨッフェを日本に連れて、日ソ国交回復の基礎を作り、その功績がソ連政府に記録されている。

 戦争を終わらせる仲介をソ連に依頼する公式ルートとして近衛秀麿が選ばれた。7/15外務省がソ連に申し込んだ。7/18にソ連が拒否。

 次の手として陸軍が秘密計略として選んだのが藤田勇だった。藤田は軍に和平の条件を出した。「満州から全軍撤退し、満州の権益いっさいを満州に譲る」これでソ連が応じない時は「満州を譲るうえに、朝鮮もソ連に譲る」この条件には軍部で異論がでて結論がでたのが8月になってからだった。

 殿様は外務大臣の東郷とは親しかった。当時、外務省は軍の監視下で自由に動けなかった。殿様が秘密に鈴木総理の手紙をモスクワに届けようという手はずだった。

 しかし、広島の原爆、2日後にソ満国境をソ連軍が越えてきた。歴史に「もしも」はありえないのだが、この藤田案で和平が実現していたら、満州からの悲劇の引き上げもなかったし、朝鮮戦争も無かった。SuzaBra会話2015年11月6日 (金) 01:05 (UTC)[返信]