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日吉矢上古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日吉矢上古墳
別名 矢上古墳
所属 日吉台古墳群[1]
(日吉・加瀬古墳群[2]
所在地 神奈川県横浜市港北区日吉二丁目
位置 北緯35度33分29.3秒 東経139度38分54.5秒 / 北緯35.558139度 東経139.648472度 / 35.558139; 139.648472座標: 北緯35度33分29.3秒 東経139度38分54.5秒 / 北緯35.558139度 東経139.648472度 / 35.558139; 139.648472
形状 円墳
規模 全長約24メートル
埋葬施設 粘土床
出土品 鼉龍鏡2枚、類(勾玉管玉・ガラス小玉・棗玉)、鉄鏃鉄剣
築造時期 4世紀末または5世紀前半
被葬者 20代女性
史跡 指定なし
有形文化財 1940年(昭和16年)5月3日国指定重文[3]
地図
日吉 矢上古墳の位置(神奈川県内)
日吉 矢上古墳
日吉
矢上古墳
神奈川県内の位置
地図
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日吉矢上古墳(ひよしやがみこふん)[4]、または矢上古墳(やがみこふん)は[5]、かつて神奈川県横浜市港北区日吉二丁目に存在した古墳円墳)。日吉台古墳群の1つ。1936年(昭和11年)の発掘調査後に消滅したが、出土遺物1940年(昭和16年)5月3日に国の重要文化財に指定された[3]

概要

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同古墳は、鶴見川とその支流矢上川に挟まれて東西に伸びる下末吉台地の東端部にあたる「日吉台」北側の、「矢上谷戸」と呼ばれる大きな谷戸によって隔てられた細長い台地の末端部に所在していた円墳である[6][注釈 1]。この台地は、現在は同古墳所在地の東側を南北に走る東急東横線により寸断されているが、かつては慶應義塾大学矢上キャンパスのある「矢上台」台地と地続きであった[8]

日吉台・矢上台には、日吉矢上古墳以外にも日吉台1号墳-5号墳(一部現存)や観音松古墳・浅間塚古墳(消滅)などの多数の古墳が分布しており、「日吉台古墳群」と呼ばれる[1]。また、矢上川を挟んで矢上台の対岸にある川崎市の「加瀬台(加瀬山」には、白山古墳第六天古墳(消滅)や加瀬台1号墳-9号墳(一部現存)で構成される「加瀬台古墳群」が分布しているが、これらと日吉台古墳群は一体と見なされて「日吉・加瀬古墳群」と総称されることもある[2]

1936年(昭和11年)10月8日、丘陵上の東急電鉄所有地内で鹿島組が土取り工事を行っていたが、当時慶應義塾大学講師であった柴田常恵と保坂三郎らが偶然、工事現場に古墳の墳丘らしき盛土()を発見し、付近に円筒埴輪片の散布を確認した。土取りの掘削が墳丘におよび始めていたため、大学側が工事関係者に掛け合って急遽発掘調査が行われることになった[9]

10月14日に測量が行われ、直径23.5メートル、残存高3メートル程の円墳と判明した[注釈 2]。本発掘は10月15・16日に行われた[11]。その結果、埋葬施設は2.37メートル×0.66メートルの長方形に粘土を張った床を持つもので[注釈 3]、床面上からは同笵(どうはん:同じ鋳型で製作した鏡)の鼉龍鏡(だりゅうきょう)2面のほか、勾玉硬玉製、琥珀製、ガラス製)、丸玉・小玉(共にガラス製)、管玉碧玉製)、棗玉(琥珀製)、鉄鏃製のなどが出土した[4]

2面の鼉龍鏡は、鏡面を上に向けて粘土床上に縁を接して平置きされ、鏡面には竹櫛と毛髪が付着していた。このため、この付近に被葬者の頭部があったと推定されている。また共に出土した歯の分析から、被葬者は20歳代の女性であったと推定された[4]

築造年代は5世紀前半代とされるが[12]、4世紀後半とする資料もある[5]

出土品は重要文化財に指定され、現在は慶應義塾大学(三田キャンパス)が所蔵している[3]。このほか、古墳周辺から出土したとされる朝顔形埴輪が伝わっている[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 日吉台とその周辺の遺跡調査を行っている慶應義塾大学は、日吉矢上古墳の所在する地点を厳密には「日吉台」の範囲に位置付けていない[7]
  2. ^ 現代の資料では、24メートル以上とするものがある[10]
  3. ^ 現代の資料にも「粘土床」とのみあり[10]、いわゆる粘土槨かは不明。

出典

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  1. ^ a b 川崎市教育委員会生涯学習部文化財課. “夢見ヶ崎”. 川崎市教育委員会. 2021年8月20日閲覧。
  2. ^ a b 浜田 1998, p. 10.
  3. ^ a b c 文化庁. “武蔵国日吉矢上古墳出土品”. 文化遺産オンライン. 2022年7月4日閲覧。
  4. ^ a b c d 横浜市歴史博物館 2001, p. 19.
  5. ^ a b 池上 2005, p. 407.
  6. ^ 横浜市教育委員会. “横浜市行政地図情報提供システム文化財ハマSite”. 横浜市. 2022年7月4日閲覧。
  7. ^ 安藤 2019, pp. 8–9.
  8. ^ 柴田 1937, p. 103.
  9. ^ 柴田 1937, p. 104.
  10. ^ a b 神奈川県考古学会 1998, p. 48.
  11. ^ 柴田 1937, p. 105.
  12. ^ 浜田 1998, pp. 7–12.

参考文献

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関連項目

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画像外部リンク
横浜市行政地図情報提供システム「文化財ハマSite」