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柴田常恵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柴田 常恵
人物情報
生誕 (1877-07-18) 1877年7月18日
日本の旗 日本愛知県
死没 1954年12月1日(1954-12-01)(77歳没)
出身校 郁文館
学問
研究分野 考古学
研究機関 東京帝国大学内務省(考査員)、慶應義塾大学
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柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年明治10年〉7月18日 - 1954年昭和29年〉12月1日[1])は、日本考古学者慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任。

生涯

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1877年、愛知県春日井郡大曽根村(現・名古屋市東区)の浄土真宗・瑞忍寺の住職の三男として生まれた[2]1897年に上京し、苦学しながら私立真宗東京中学高等科に入り、さらに私立郁文館内の史学館で歴史学を学んだ[3][4][5]。この頃、坪井正五郎の講演を聴き、考古学に興味を持ったという。1902年東京帝国大学雇となり、理学部人類学教室に勤務し、1906年には理科大学助手[6]となった。坪井を助け、『東京人類学雑誌』の編輯にあたり、各地の遺跡・遺物の調査に従事した[3]

1919年史跡名勝天然紀念物法が公布され、史跡名勝天然紀念物を内務省が所轄することになったことにより、その翌年から嘱託に任命され、考査員[7]として関与することになる。その後、慶應義塾大学講師となり、1936年日吉矢上古墳1937年には加瀬白山古墳発掘調査などに関係した[8]。戦後は、1950年より文化財専門審議会委員を務めた。1954年12月1日、脳溢血のため死去[2]。77歳没。

研究内容・業績

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  • 柴田の研究分野は多岐にわたるが、特に歴史考古学にあったと言える[9]。寺院出身であり仏教上の教理・教典に明るく、仏教考古学は得意な領域であった。
  • 1929年には埼玉郷土会を設け、雑誌『埼玉史談』を刊行し、その顧問となった。

評価

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  • 大場磐雄は柴田の業績を評して「全体に地味で学会を驚かしたという論著は少ない」が、大正末年頃から指導を受け、学問の師として尊敬の念に変わりはない、と書き残している[9]

著作

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単著

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  • 『仏像綜鑒』右文館、1920年4月。 NCID BA53112516全国書誌番号:43030850 
  • 大場磐雄 編『柴田常恵集』築地書館〈日本考古学選集 12〉、1971年11月。 NCID BN02042266全国書誌番号:73013615 

編集

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共著

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共編

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撮影

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  • 國學院大學日本文化研究所学術フロンティア推進事業「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」プロジェクト 編『柴田常恵写真資料目録 國學院大學学術フロンティア構想』 1巻、國學院大學日本文化研究所〈國學院大學学術フロンティア構想〉、2004年1月。ISBN 9784905853107NCID BA65790886全国書誌番号:20564536 
  • 國學院大學日本文化研究所学術フロンティア推進事業「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」プロジェクト 編『柴田常恵写真資料目録 國學院大學学術フロンティア構想』 2巻、國學院大學日本文化研究所〈國學院大學学術フロンティア構想〉、2006年2月。 NCID BA65790886全国書誌番号:21055760 

参考文献

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脚注

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  1. ^ 署名なし 1955
  2. ^ a b 田中秀典「柴田常恵資料の整理・保存作業」
  3. ^ a b 斎藤忠『考古学史の人びと』第一書房、1985年、305頁。 
  4. ^ 重田定一 編『國史辞典』普及舎、1899年12月25日、3頁。NDLJP:769344/2 
  5. ^ 郁文館創立五十年史編纂会 編『郁文館五十年史(自明治二十二年十一月十三日創立至昭和十四年十一月十三日記念日)』郁文館創立五十年史編纂会、1939年12月18日、8頁。NDLJP:1072284/23 
  6. ^ 『職員録 明治40年(甲)〔明治45年5月1日現在調査〕』印刷局、519頁。NDLJP:779792/288 
  7. ^ 『職員録 大正9年』内閣印刷局、1923年、p.65
  8. ^ 斎藤忠『考古学史の人びと』第一書房、1985年、307頁。 
  9. ^ a b 斎藤忠『考古学史の人びと』第一書房、1985年、308頁。 

外部リンク

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