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押本映治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
押本映二から転送)
おしもと えいじ
押本 映治
押本 映治
1925年の写真、満25歳。
本名 米村 俊民(よねむら としたみ)
別名義 押本 英治
押本 暎治
押本 映二
押本 榮二
生年月日 (1900-01-03) 1900年1月3日
没年月日 (1946-05-26) 1946年5月26日(46歳没)
出生地 日本の旗 日本 鳥取県岩美郡富桑村(現在の同県鳥取市行徳
身長 162.1cm
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1920年 - 1945年
主な作品
峠の彼方
幻を追ふて
呪の女
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押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 1946年5月26日[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。本名は米村 俊民(よねむら としたみ)[2][6][10]。芸名の表記は押本 英治押本 暎治押本 映二押本 榮二と揺れがある。創立間もない松竹蒲田撮影所に所属した若手俳優で、大正末期までは冒険活劇のスターとして活躍、後年は日活多摩川撮影所大映東京撮影所などであらゆる役柄をこなした名脇役として知られる[2]

来歴・人物

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1900年(明治33年)1月3日鳥取県岩美郡富桑村(現在の同県鳥取市行徳、鳥取市行徳町は誤り)に生まれる[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。富桑尋常高等小学校(現在の鳥取市立富桑小学校)を経て、旧制鳥取県立鳥取中学校(後の旧制鳥取県立鳥取第一中学校、現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する[2][6][10]

1920年(大正9年)5月、映画俳優を志して国際活映角筈撮影所へ入社するが、都合により間も無く退社した、とされる[2][3][7][8][10]。初期の資料である『映画新研究十講と俳優名鑑』(朝日新聞社)などによれば、1913年(大正2年)に大阪府大阪市へ移り、旧制大阪府立市岡中学校(現在の大阪府立市岡高等学校)に進学、同中学校卒業後は奈良県奈良市モール映画協会を組織するが、1920年(大正9年)秋には製作を中止したという旨が記されている[4][5]。同年9月14日、創立して間も無い松竹蒲田撮影所へ移籍、同年11月24日に公開された村田実監督映画『光に立つ女』で映画デビューを果たす[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。色浅黒く眉の太い好漢ぶりを買われて冒険活劇俳優として売り出され、関東大震災直後の1924年(大正13年)8月1日に公開された清水宏監督映画『峠の彼方に』では初主演[2][5]。1928年(昭和3年)からは脇役に回るが、同年2月18日に公開された野村芳亭監督映画『道呂久博士』や、翌1929年(昭和4年)1月5日に公開された清水宏監督映画『森の鍛冶屋』など、以後も数多の作品に出演した[7][8][10]

『世界映画俳優名鑑 大正十一年度』(キネマ同好会)など一部の資料によれば、東京府荏原郡蒲田村女塚(現在の東京都大田区西蒲田辺り)、東京府荏原郡蒲田村蒲田新宿(後の同府東京市蒲田区新宿町、現在の東京都大田区蒲田辺り)に住み、身長は5尺3寸(約160.6センチメートル)から後に5尺3寸5分(約162.1センチメートル)、体重は15貫(約56.3キログラム)から後に16貫200匁(約60.8キログラム)となり、趣味は観劇、運動野球水泳乗馬拳闘)、カフェー漁りである旨が記されている[3][4][5][6][7][8][9][10]

1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報)などでは、松竹蒲田撮影所に在籍して以降の来歴は全く述べられていない[2][10]が、1935年(昭和10年)1月15日に新設された松竹大船撮影所に参加した様子はなく、同時期に退社したものと思われる[11]。その後はフリーランスとなっており、1937年(昭和12年)6月1日に公開された重宗務監督映画『オヤケアカハチ』など、主に東京発声映画製作所の作品に出演している。1940年(昭和15年)には日活多摩川撮影所に移籍し、同年5月8日に公開された野口博志監督映画『春ひらく』などに出演した[12][13]。この間、1930年代後半から1940年代前半にかけて、新興キネマ東京撮影所に「押本英三(押本映三)」の名前が確認出来るが、全くの別人である[14][15][16][17]

1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合による大映の設立以降も継続入社、日活多摩川撮影所改め大映東京第二撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)に所属して準主役・脇役出演を続け、老練な演技を見せた[18]。ところが、1945年(昭和20年)7月26日に公開された田中重雄吉村廉両監督映画『最後の帰郷』に出演した以降の出演作品が見当たらない。第二次世界大戦終結後の映画の出演歴は無く、以後の消息は不明とされていた[2][18]が、翌1946年(昭和21年)6月に発行された『月刊 西日本』(西日本新聞社)にて、去る5月26日夜に病死したという旨が記されている[1]。満46歳没。

初期に「押本七之助(1899年 - 1970年)の実弟」説が流れ、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)の両名の項目にもその旨の記述がされたが、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同)では「押本七之助を兄に持つはあやまりである」と否定している[7][8]。現在では『日本映画俳優全集 男優編』などでもこの件は言及されていない[2]

出演作品

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松竹蒲田撮影所

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1925年の写真、満25歳。

特筆以外、全て製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹」、特筆以外は全てサイレント映画である。

フリーランス

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特筆以外、全て製作は「東京発声映画製作所」、配給は「東宝映画」、以降全てトーキーである。

日活多摩川撮影所

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全て製作は「日活多摩川撮影所」、配給は「日活」である。

大映

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特筆以外、全て製作は「大映東京撮影所(大映東京第二撮影所)」、配給は「映画配給社」である。

脚注

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  1. ^ a b 『月刊 西日本』昭和21年6月号、西日本新聞社、28頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、126頁。 
  3. ^ a b c d e 『世界映画俳優名鑑 大正十一年度』キネマ同好会、1922年、259頁。 
  4. ^ a b c d e 『映画新研究十講と俳優名鑑』朝日新聞社、1924年、139頁。 
  5. ^ a b c d e f 『映画大観』春草堂、1924年、104-105頁。 
  6. ^ a b c d e f 『日本映画年鑑 大正13年・14年』東京朝日新聞発行所、1925年、163-165頁。 
  7. ^ a b c d e f g 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、31頁。 
  8. ^ a b c d e f g 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、38頁。 
  9. ^ a b c d 『日本映画年鑑 昭和4・5年』東京・大阪朝日新聞社、1930年、160頁。 
  10. ^ a b c d e f g h i 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1934年、49-50頁。 
  11. ^ 『キネマ旬報』昭和11年4月1日号、キネマ旬報社、243-245頁。
  12. ^ 『キネマ旬報』昭和15年7月1日号、キネマ旬報社、101頁。
  13. ^ 『映画旬報』昭和16年7月1日号(夏季特別号)、映画出版社、124頁。
  14. ^ 『キネマ旬報』昭和13年4月1日号、キネマ旬報社、190頁。
  15. ^ 『キネマ旬報』昭和14年4月1日号、キネマ旬報社、188頁。
  16. ^ 『キネマ旬報』昭和15年7月1日号、キネマ旬報社、105頁。
  17. ^ 『映画旬報』昭和16年7月1日号(夏季特別号)、映画出版社、130頁。
  18. ^ a b 『映画年鑑 昭和18年』日本映画雑誌協会、1943年、394頁。 

関連項目

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外部リンク

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