忠節橋
忠節橋(現橋) | |
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金華山から望む忠節橋(2019年1月) | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 岐阜県岐阜市[1] |
交差物件 | 長良川[1] |
用途 | 道路橋 |
路線名 | 一般国道157号 |
管理者 | 岐阜県岐阜土木事務所[2] |
施工者 | 横河橋梁製作所[2](上部工) |
着工 | 1939年(昭和14年)[3]1月 |
竣工 | 1948年(昭和23年)7月 |
開通 | 1948年(昭和23年)8月1日[4] |
座標 | 北緯35度25分52秒 東経136度45分01秒 / 北緯35.4312度 東経136.7502度座標: 北緯35度25分52秒 東経136度45分01秒 / 北緯35.4312度 東経136.7502度 |
構造諸元 | |
形式 | 6径間連続鋼バランスドブレースドタイドアーチ橋 |
材料 | 鋼[1] |
全長 | 266.06 m[5] |
幅 | 17.60 m[5] |
最大支間長 | 80.00 m[6] |
関連項目 | |
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忠節橋(1911年) | |
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基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 岐阜県岐阜市・同県稲葉郡[7] |
交差物件 | 長良川[7] |
管理者 | 岐阜県[7] |
竣工 | 1911年(明治45年)[8] |
構造諸元 | |
形式 | プラットトラス橋[9] |
材料 | 木鉄[10] |
全長 | 161.0 m[9] |
幅 | 4.15 m[9] |
関連項目 | |
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忠節橋(1898年) | |
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基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 岐阜県岐阜市・同県稲葉郡[11] |
交差物件 | 長良川[11] |
管理者 | 忠節橋架橋梁株式会社[9] |
竣工 | 1898年(明治31年)[9] |
構造諸元 | |
材料 | 木[11] |
全長 | 96間2尺[11] |
幅 | 2間1尺[11] |
関連項目 | |
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忠節橋(1884年) | |
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基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 岐阜県厚見郡[12] |
交差物件 | 長良川[12] |
竣工 | 1884年(明治17年)5月[12] |
構造諸元 | |
材料 | 木[12] |
全長 | 173.7 m[9] |
幅 | 3.9 m[9] |
関連項目 | |
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忠節橋(ちゅうせつばし[13][14])は、岐阜県岐阜市の長良川に架かる[15]、国道157号(国道303号重複)の[16]、鋼製アーチ橋である[17]。補強工事や高欄の取替えなどが行われているが、その姿は1948年(昭和23年)の架設当時とほとんど変わっていない[17]。
概要
[編集]下記は1948年(昭和23年)の竣功時のデータである[18]。
- 橋梁形式
- 竣功:1948年(昭和23年)7月31日
- 供用:1948年(昭和23年)8月1日(開通式)[4]
- 延長:266.06 m[5](構橋部 181.06 m、鈑桁部 85.00 m)
- 幅員:17.60 m[5](軌道部 4.98 m、車道両側 3.64 m、歩道両側 2.67 m)
- アーチライズ高:14.50 m(桁最下端からアーチ最上部まで)
- 鋼重:2,043tf[6]
- 製造:横河橋梁製作所芝浦工場[2][19]
- 橋面
- 橋台:基礎杭打[6](松丸太:直径18 cm×5.2 m)扶壁式鉄筋コンクリート造
- 橋脚:基礎井筒[6](11.7 m - 17.7 m)鉄筋コンクリート造5基
- 支間長:50.53 + 80.00 + 50.53 m、27.00 + 31.00 + 27.00 m[6]
- 鉸鋲数(現場鋲員数):構桁部 87,765本、鈑桁部 30,645本、合計 118,360本
- 活荷重:内務省鋼道路橋設計示方書案に依る第一種荷重、及び名古屋鉄道30トン電車2両連結[6]
- 所在地:岐阜県岐阜市真砂町 - 早田
- 取付道路:延長754 m(左岸取付道路414 m、右岸取付道路340 m、盛土57,457 m3、鉄筋コンクリート框橋 368 m3)
- 総予算:6721万5908円[1]
旧橋の諸元
[編集]初代
[編集]2代目
[編集]- 橋梁形式:木桁橋(有料、後に岐阜県が2,917円で買上げ[21]て無料化)[20]
- 供用:1898年(明治31年)[20]
- 延長:96間2尺[11](約175.2 m)
- 幅員:2間1尺[11](約3.93 m)
- 経費:6,500円[22]
3代目
[編集]- 橋梁形式:木鉄混合平行弦プラットトラス橋4連
- 供用:1912年(明治45年)[8]
- 延長:164.7 m(1937年(昭和12年)に北側に約100 mの土橋を架けて延伸)
- 幅員:4.70 m
- 経費:51,543円[注 1]
歴史
[編集]明治の初め頃まで長良川には橋が架かっておらず、現在の忠節橋付近は「忠節の渡し」と呼ばれる渡し舟で右岸と左岸が結ばれていた[16]。長良川には1874年(明治7年)に明七橋(長良橋)が、1881年(明治14年)5月に河渡橋が架けられたが、岐阜町(当時)と周辺農村の往来が多くなると、新たな橋の架橋が求められるようになった[16]。
出資者約10人により資本金1万5000円の株式会社が設立され、1884年(明治17年)5月に現在の忠節橋より270 mほど上流[注 2]に総工費6,500円で忠節橋(初代)が架けられた[16]。通行料を取る賃取橋で、一人5厘、馬・人力車は2銭が徴収された[16]。
1898年(明治31年)には、初代の下流(現在の忠節橋より150 mほど上流[注 3])に架け替えられた[16]。この橋梁も賃取橋で[20]、他の橋が県費で架け替えられて無料化されるなか、岐阜市で最後まで残った賃取橋だったが[20]、老朽化が激しくなり無料化による利便性向上も望まれたため、県費で架け替えられる事となり,2,917円で買い上げられた[21]。
1912年(明治45年)、県費51,543円[注 1]が投じられ、忠節橋(2代目)と同じ場所に[25]木鉄混合平行弦プラットトラス橋[注 4]の忠節橋(3代目)が完成し、無料で通行可能となった[25]。1936年(昭和11年)12月に着工された長良川上流改修工事で、2つあった分派川が締め切られ、併せて長良川本流(井川)の川幅も拡げられる事となり、忠節橋付近も右岸堤防が北に約100m拡げられたため[25]、1937年(昭和12年)に忠節橋(3代目)の北側に約100mの土橋を架けて延伸した。
昭和の初めごろ、この忠節橋(3代目)も老朽化が著しく[3]、荷重や交通量に耐えられなくなると懸念され[16]、鋼鉄製の永久橋に架け替えられる事となった。当初計画(第一次計画)では鈑桁部分を鉄筋コンクリート桁としたもので、1939年(昭和14年)1月に着工したが[16]、太平洋戦争の勃発で鋼・セメント等の主要資材の入手が困難となり[3]、1942年(昭和17年)9月に橋台・橋脚などの下部工が完成した状態で工事は一時中止となった[16]。その後、竣功した橋脚間に新たに木造橋脚(下部鉄筋コンクリート井筒)10基を設置して軌道橋(木造ハウ)と公道橋(木造ラチス)を並列架設する設計(第二次計画)に変更し、1944年(昭和19年)7月に着工したが[3]、翌1945年(昭和20年)7月9日の岐阜空襲で橋梁用材の大部分が焼失して工事は再度中断した[3]。この間、旧橋は幾度かの修繕を重ねて戦時中の酷使に耐えてきた[16]。第二次世界大戦後、将来の自動車交通量の増加を見越して再度設計を変更[16]。1947年(昭和22年)6月に取付道路、同年11月[16]22日に上部工の工事を再開し、1948年(昭和23年)7月31日に諸般の工事が終了。翌8月1日に竣功式を挙行して供用開始した[4]。鋼材の調達が難しかった第二次世界大戦後、日本で初めて架設された大規模鋼橋である[15]。
4車線のうち中央2車線に路面電車(名古屋鉄道岐阜市内線)の複線軌道が敷設された併用軌道橋だったが[25]、自動車の普及に伴って路面電車の利用客が減少[25]。2005年(平成17年)3月31日に岐阜市内線が廃止[26]されてから、自動車・歩行者用橋梁となっている[16]。
2019年(令和元年)には、土木学会から土木学会選奨土木遺産の認定を受けた[14]。
沿革
[編集]- 1884年(明治17年)5月[12] - 現在の忠節橋より270 mほど上流に忠節橋(初代)が架けられる(有料[25])。
- 1898年(明治31年) - 初代の下流(現在の忠節橋より150 mほど上流)に忠節橋(2代目)が架けられる(有料)[25]。
- 1912年(明治45年) - 県費で忠節橋(3代目)が架けられる。通行料が無料となる[25]。
- 1937年(昭和12年) - 長良川上流改修工事による河川拡幅に伴い、北へ約100 m延伸[25]。
- 1948年(昭和23年)8月1日 - 忠節橋(4代目:現橋)が開通[4]。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 岐阜市内線岐阜駅前駅 - 忠節駅間営業廃止(廃線)[26]により、同日より自動車・歩行者用橋梁となる。
特徴
[編集]長良川の流路(低水敷)を跨ぐ部分の橋梁形式に、ブレースト・リブ・バランスト(カンチレバー)・タイドアーチ橋を採用。日本に現存するこの形式の橋は、北海道旭川市の旭橋、岩手県一関市の北上大橋、東京都荒川区・墨田区の白鬚橋、および忠節橋の4例のみである[27]。
交通事情
[編集]軌道法に準拠する最後の併用軌道橋となっていた。また、列車通行時には片側2車線の道路が実質1車線となり、朝夕のラッシュ時には橋のたもとの交差点で混雑が見られた。また、自動車のタイヤがレールでスリップして他の車と衝突する交通事故も絶えなかった。岐阜市内線の廃止に伴い、以前ほどの渋滞はなくなった。軌道は2007年(平成19年)3月までに撤去されている。
なお、忠節橋北端の忠節橋北交差点は、2019年(令和元年)時点で岐阜北警察署管内の交通事故多発場所ワースト6となっている[28]。
その他
[編集]JR岐阜駅を起点として、忠節橋を経由した岐阜環状線までの国道157号を含む道路の総称を「忠節橋通り」という。
長良川左岸堤防上の「初代忠節橋」が架かっていた箇所に、2013年(平成25年)6月、寄贈された「二代目忠節橋」の石碑2柱と説明板を岐阜県が設置。
1986年9月5日午前0時半頃、元大相撲力士で廃業後に岐阜市内でちゃんこ鍋店を営んでいた荒岐山正がこの橋から転落死した。自殺ではなく、事故として扱われている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 「橋長著大橋架」(PDF)『岐阜県統計書(昭和22年)』、岐阜県、岐阜、1949年、27-28頁、doi:10.11501/9527079、全国書誌番号:50003949、2020年11月3日閲覧。
- ^ a b c d 紅林章央「ぎふ名橋ものがたり 忠節橋(4)」『中日新聞』中日新聞社、愛知、2020年10月13日、第27995号、19面、岐阜県版、全国書誌番号:00062088。
- ^ a b c d e 紅林章央「ぎふ名橋ものがたり 忠節橋(3)」『中日新聞』中日新聞社、愛知、2020年10月6日、第27989号、15面、岐阜県版、全国書誌番号:00062088。
- ^ a b c d 紅林章央「ぎふ名橋ものがたり 忠節橋(5)」『中日新聞』中日新聞社、愛知、2020年10月20日、第28002号、15面、岐阜県版、全国書誌番号:00062088。
- ^ a b c d 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(昭和27年)』、岐阜県、岐阜、1952年、183-184頁、doi:10.11501/9527084、全国書誌番号:50003949、2020年11月3日閲覧。
- ^ a b c d e f 土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会. “忠節橋”. 歴史的鋼橋集覧. 土木学会附属土木図書館. 土木学会. 2020年10月31日閲覧。
- ^ a b c 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(明治44年)』第1巻、岐阜県、岐阜、1912年、46-47頁、doi:10.11501/973708、全国書誌番号:43039407、2020年11月3日閲覧。
- ^ a b 岐阜県知事官房「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(第36回)』第1巻、岐阜県、岐阜、1928年12月28日、41頁、doi:10.11501/1446917、全国書誌番号:46080922、2020年11月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g 紅林章央「ぎふ名橋ものがたり 忠節橋(2)」『中日新聞』中日新聞社、愛知、2020年9月29日、第27982号、17面、岐阜県版、全国書誌番号:00062088。
- ^ 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(大正2年)』第1巻、岐阜県、岐阜、1914年、35頁、全国書誌番号:00053366、2020年11月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(明治34年)』、岐阜県、岐阜、1903年、101頁、全国書誌番号:00053366、2020年11月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 「著大橋梁ノ長及幅」(PDF)『岐阜県統計書(明治17年)』、岐阜県、岐阜、1887年2月、170-171頁、doi:10.11501/806782、全国書誌番号:40037409、2020年11月3日閲覧。
- ^ 今井裕夫 2007.
- ^ a b “忠節橋”. 選奨土木遺産. 土木学会. 2022年2月24日閲覧。
- ^ a b 紅林章央「ぎふ名橋ものがたり 忠節橋(1)」『中日新聞』中日新聞社、愛知、2020年9月22日、第27975号、全国書誌番号:00062088。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 佐々木勝「土木遺産の香 第75回 戦後最初の長大鋼橋「忠節橋」」(PDF)『Civil Engineering Consultant』第280号、建設コンサルタンツ協会、東京、2018年7月、44-47頁、全国書誌番号:00117305、2020年10月31日閲覧。
- ^ a b 岐阜県建設政策課政策企画係 (2015年10月6日). “長良川周辺地域の歴史的土木構造物(その1)”. 岐阜県公式ホームページ(建設政策課). 岐阜県. 2020年10月31日閲覧。
- ^ 「忠節橋架設工事概要」12-13頁、17頁
- ^ “忠節橋”. 第2章 時代を代表する構造物. YBHDグループのご紹介. 横河ブリッジホールディングス. 2011年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月31日閲覧。
- ^ a b c d e 石田元章、秋山孝正「長良川における橋梁空間の歴史性に関する検討」(PDF)『土木史研究』第20号、土木学会、東京、2000年5月、227-236頁、ISSN 09167293、全国書誌番号:00083809、2020年10月31日閲覧。
- ^ a b 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(明治42年)』第1巻、岐阜県、岐阜、1910年12月30日、60頁、doi:10.11501/806794、全国書誌番号:40037409、2020年11月3日閲覧。
- ^ 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(明治35年)』、岐阜県、岐阜、1904年、102-103頁、全国書誌番号:00053366、2020年11月3日閲覧。
- ^ 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(大正3年)』第1巻、岐阜県、岐阜、1915年、36頁、全国書誌番号:00053366、2020年11月3日閲覧。
- ^ 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(大正4年)』第1巻、岐阜県、岐阜、1917年1月20日、36頁、doi:10.11501/973716、全国書誌番号:43039407、2020年11月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 後藤征夫「ふるさとの歴史こぼれ話Vol.6 長良川・忠節橋物語」(PDF)『VIVO』第29号、岐阜ルネッサンスクラブ、岐阜、2012年、2-3頁、2020年10月31日閲覧。
- ^ a b 岩田知也、加藤博和「鉄軌道廃線の影響分析」(PDF)『土木計画学研究発表会・講演集』第44巻、土木学会、東京、2011年11月、298頁、ISSN 09134026、全国書誌番号:22088873、2020年10月31日閲覧。
- ^ 浅見暁「時代を越えて生き続ける最北の名橋「旭橋」」(PDF)『Civil Engineering Consultant』第246号、建設コンサルタンツ協会、東京、2010年1月、36-39頁、全国書誌番号:00117305、2020年10月31日閲覧。
- ^ 岐阜北警察署 (2020年7月16日). “令和元年中交通事故多発場所一覧”. 岐阜北警察署. 岐阜県警察本部. 岐阜県. 2020年10月31日閲覧。
参考資料
[編集]- 河瀬令二、涌井義貞「忠節橋架設工事概要」『土木技術』第3巻第12号、土木技術社、東京、1948年12月15日、12-24頁、ISSN 02855046、全国書誌番号:00017463。
- 今井裕夫「忠節橋Project - 川の記憶のデザインIV -」(PDF)『岐阜市立女子短期大学研究紀要』第56号、岐阜市立女子短期大学、岐阜、2007年3月、53-60頁、ISSN 09163174、全国書誌番号:00075527、2020年10月31日閲覧。
- 「著大橋梁ノ長及幅」(PDF)『岐阜県統計書(明治19年)』、岐阜県、岐阜、1887年、178-179頁、doi:10.11501/806784、全国書誌番号:40037409、2020年11月3日閲覧。
- 「橋長著大橋架」(PDF)『岐阜県統計書(昭和15年)』、岐阜県、岐阜、25頁、全国書誌番号:00053366、2020年11月3日閲覧。
- 「著大橋梁」(PDF)『岐阜県統計書(昭和37年)』、岐阜県、岐阜、1964年、286-289頁、doi:10.11501/9527095、全国書誌番号:50003949、2020年11月3日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “忠節橋の変遷”. 長良川デジタル百科事典. 岐阜県県土整備部河川課. 岐阜県. 2020年10月31日閲覧。
- “忠節橋”. 地理院地図(電子国土Web). 国土地理院. 2020年10月31日閲覧。
- “岐阜市忠節町 長良川左岸 50.2Km 忠節橋 下流”. 木曽川上流事務所管内ライブカメラ映像. 国土交通省中部地方整備局木曽川上流河川事務所. 国土交通省中部地方整備局. 2020年10月31日閲覧。