志岐鎮経
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 鎮経→麟泉(仙) |
霊名 | ドン・ジョアン |
官位 | 兵部大夫、豊前守 |
主君 | 大友宗麟→龍造寺隆信→島津義久→豊臣秀吉 |
氏族 | 志岐氏 |
父母 | 父:志岐重弘 |
兄弟 | 鎮経、経弘 |
子 | 養子:志岐親弘(親重、諸経)(有馬晴純子) |
志岐 鎮経(しき しげつね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。天草五人衆の一角志岐氏16代当主。肥後国志岐城主。志岐麟泉の名で知られる。
生涯
[編集]キリシタン大名でもあり、永禄9年(1566年)にイエズス会士・ルイス・デ・アルメイダを招き布教を許しており、これが天草にキリスト教が広まるきっかけとなった。しかし、鎮経自身は熱心なキリシタンではなく、南蛮貿易の利益を目的としていたため、領内に良港が存在せず利益の少ないことが判明すると棄教し、元亀2年(1571年)には一転してキリシタンを迫害したため、『フロイス日本史』では非難されている。
志岐氏は大友氏の影響下にあったが、天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が衰退すると、天正8年(1580年)頃には他の小大名と同じく龍造寺氏の傘下に属した。後に有馬晴信が龍造寺氏から島津氏に寝返ると行動を共にした。豊臣秀吉の九州平定では豊臣政権に人質を差し出し、島津氏が降伏すると、志岐氏も秀吉の配下となり領地も安堵された。
当初佐々成政に属したが、成政が肥後国人一揆で責任をとらされ自害した後は、後続として入部した小西行長や加藤清正などに服属した。ところが、天正17年(1589年)の行長の宇土城の城普請では命令に服さず、これに他の天草豪族も同調し行長と対立することとなる(天正の天草合戦)。行長は志岐城を落とすべく3千の兵で袋浦(現在の富岡湾)へ進軍するが、麟泉(鎮経)は小西軍が上陸したところに夜襲を仕掛け破った。行長は加藤清正、有馬晴信、大村喜前に助勢を依頼、これにより総勢1万余を相手にすることとなり、志岐城は小西・加藤らの連合軍に打ち破られ敗北。養子・親弘の妻が島津義虎の娘だった縁などから島津氏を頼り、出水へ逃れた。