平島義宜
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永6年10月14日(1709年11月15日) |
死没 | 安永7年4月2日(1778年4月28日) |
別名 | 通称:左衛門、号:博山 |
戒名 | 純精院殿博山道雅大居士[1] |
墓所 | 西光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 足利氏(平島公方) |
父母 | 父:平島義武 |
兄弟 | 義宜、義継 |
妻 | 正室:羽林家中納言持明院基輔の娘 |
子 |
義智、足利義根、義人、義豊、足利義恭、 娘、娘 |
平島 義宜(ひらしま よしのり[2])は、江戸時代中期の足利氏の支流で、8代平島公方。7代平島公方・平島義武の嫡男。石高は140石、後に1190石。
生涯
[編集]徳島藩蜂須賀家に微禄しかあてがわれず、生活は困窮していたが、漢詩など学問好きで、博山と号する。このために藩主蜂須賀重喜に加増を求めたが、藩政改革の途中ということもあってか拒否される。宝暦11年(1761年)に重喜が江戸に参勤交代で上府した際、藩重役に再度加増を求めたが、やはり拒否された。しかし明和年中に現米950石を加増されて、1190石となる[3]。
京の儒者島津華山を招聘し、館内に「栖竜閣」を設けて住まわせ、一族家臣や近郷の同好の士とともに彼に師事した。長男の義智が宝暦12年9月21日(1762年)に30歳で義宜より先に没したため、次男の義根の教育を崋山に託した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大田亮『姓氏家系大辞典 第三巻』
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