コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

川島桂山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川島桂山書 三条右大臣 後撰集巻11・恋
川島桂山書 長光山蓮成寺石碑(東金市)
川島桂山書 正岡子規石碑(佐倉市)

川島 桂山(かわしま けいざん、1898年明治31年)11月12日 - 1987年昭和62年)3月4日)は、昭和に活躍した千葉県出身の書家。書道普及会創設者[1]。社団法人日本書道院理事[1]。書道研究温知会名誉理事[1]。本名は川嶋 泰祐(かわしま たいすけ)[1]

略歴

[編集]

1920年大正9年)小野鵞堂主宰の書道研究斯華会に入会[2]1925年(大正14年)小野成鵞および神郡晩秋に師事し直接指導をうけ[1]1952年(昭和27年)から1970年(昭和45年)には豊道春海に書道の薀奥を学んだ[1]。また、世界各地に日本美術を紹介する手助けや、芸術家文化人のチャリティ展などに協力して書道の普及に尽力した[1]

書道普及会

桂山は1936年(昭和11年)「現代に適応した書道の普及と兼ねて精神の修養に資せんが為」に[1]書道普及会を設立し、会誌「書道普及」を創刊する[1]。桂山のいう「現代に適応した書道」とは「大衆の使用しつつある楷・行・草・かなの四体と、漢字と仮名との調和した書道」である[1]。書道普及会は、北は北海道から南は鹿児島まで、また樺太朝鮮台湾中国に支部を有し[3]1940年(昭和15年)には140支部、会員は3000名を超えた[4]。これは桂山の妻ちよが考案した「楷行草かな」の半紙大の折込を手本とし[1]、会員は作品を郵送して添削指導をうける方法[1]が評判を呼び、また書道論など新機軸の企画が好評を得た[1]ためとされる。

略年譜
1898年 千葉県山武郡豊成村堀之内(現・東金市堀之内)に生まれる[1]
1911年 13歳 上京[5]
1920年 22歳 小野鵞堂主宰の「書道研究斯華会」に入会[2]
1925年 27歳 小野成鵞、神郡晩秋に師事[1]
1928年 30歳 第77回日本美術協会展覧会入選[5]
第1回戊辰書道会展入選[1]
1929年 31歳 安東聖空主宰の正筆会賛助員となる[5]
神奈川県鎌倉市に移住し書道教授を始める[1]
第2回戊辰書道会展入選[1]
1930年 32歳 第83回日本美術協会展において総裁高松宮より褒状[1]
泰東書道院委員[5]
1931年 33歳 第86回日本美術協会展覧会入賞[5]
1932年 34歳 書道研究温知会師範[1]
第3回泰東書道院展において総裁東久邇宮より褒状[1]
1934年 36歳 第5回泰東書道院展において総裁東久邇宮より褒状[1]
1936年 38歳 「書道普及会」を創設[1]し、会誌「書道普及」を発行[1]
1952年 54歳 豊道春海に書道の薀奥を学ぶ[1]。日本書道院審査員[1]
1957年 59歳 日本書道院監事[1]
1959年 61歳 日本書道院理事[1]。書道研究温知会理事[1]
1963年 65歳 大阪吹田市日本書道教育研究研精会顧問[1]
1971年 73歳 書道研究温知会名誉理事[1]
1972年 74歳 日本綜合書芸院理事[5]
1987年 88歳 永眠

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 書道普及会 東金市デジタル歴史館、2019年11月10日閲覧。
  2. ^ a b 富士書房編集部編『小倉百人一首』富士書房 1982年11月23日第二版、229頁より引用
  3. ^ 川嶋泰祐『書道普及』第1巻第3号10月号、1936年、23-26頁。
  4. ^ 千葉日報社『書家 桂山の碑建立 七回忌で東金の蓮成寺に』千葉日報1992年11月14日付朝刊
  5. ^ a b c d e f 『川嶋泰祐七回忌建碑記念 川島桂山年譜』平成4年11月1日出版、2019年11月10日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 富士書房編集部編『小倉百人一首』富士書房 1982年11月23日第二版
  • 鶴岡正夫『青少年の座右銘 現代千葉の百人』育英出版社 1978年8月14日発行

関連項目

[編集]