コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

山沢静吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山沢 静吾
生誕 1846年1月12日
日本の旗 日本 薩摩国
死没 (1897-03-30) 1897年3月30日(51歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
最終階級 陸軍中将
墓所 青山霊園立体埋蔵施設2区
テンプレートを表示

山沢 静吾(やまざわ せいご、1846年1月12日弘化2年12月15日) - 1897年3月30日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将従三位勲二等[1]男爵。別名・盛致、鉄之進。

経歴

[編集]

薩摩藩士・山沢十太夫の長男として生まれる。戊辰戦争に参戦し、1869年、第1大隊5番小隊長となり、同年、御親兵として上京。1871年、陸軍大尉任官。1872年、免本官となり牧畜研究のためアメリカに派遣される。1874年5月帰国し、同年10月、陸軍中佐に任官し、陸軍省出仕・陸軍生徒取締としてフランスに派遣される。1877年5月から翌年7月まで露土戦争観戦武官として派遣され、プレヴェン包囲戦に従軍、ロシアとルーマニアから軍功賞牌が下賜される[2][3]

歩兵第3連隊長や歩兵第1連隊長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、1885年5月、陸軍少将に昇進。歩兵第3旅団長や歩兵第10旅団長、留守歩兵第9旅団長を経て、1895年1月、陸軍中将に昇進。留守第5師団長を経て、日清戦争第4師団長として出征した。

1895年12月、西南戦争・日清戦争の軍功を賞されて男爵を授けられる。

明治30年3月30日薨去。墓所は2017年までは青山霊園1-イ-10-1にあったが、現在は墓じまいとなり同霊園の2-イ-10付近にある立体埋蔵施設第2区に合葬されている。

栄典

[編集]
位階
勲章等

親族

[編集]
  • 妻:操 - 北海道士族・木村広凱の二女[9]
  • 娘:橋口ヒサ(橋口勇馬陸軍少将の妻)[10][11]
  • 長男:幾太郞 - 男爵を継ぐ。妻の幾枝は早川千吉郎の妹[9]。長男・静一が襲爵[12]
  • 息子:鉄五郎 - 学習院初等科、中等科、高等科を経て京都大学政治学科に進み、伊藤伝右衛門の異母妹・初枝の入り婿となり、伊藤鉄五郎と称した[13][12]
  • 息子:乾次 - 陸軍砲兵中尉[12]
  • 曽孫:タケミ・ササモリ - 2009年に東京で開かれた日本・ブルガリア外交関係再開50周年式典に山沢の曾孫として招待された[14]

脚注

[編集]
  1. ^ 軍人顕彰会 鹿児島県出身軍人壱
  2. ^ 日・ブルガリア外交関係再開50周年とは
  3. ^ 外務省: 外交史料 Q&A 明治期 - Ministry of Foreign Affairs of Japan
  4. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  5. ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
  6. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  7. ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
  8. ^ 『官報』第3732号「叙任及辞令」1895年12月5日。
  9. ^ a b 山澤幾太郞『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
  10. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、123頁。
  11. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、791頁。
  12. ^ a b c 山澤静一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  13. ^ 『志賀直哉全集』岩波書店、1998年
  14. ^ Top 5 foreigners in the Bulgarian history – Part 1Rosetta Moto Tours、January 10, 2020

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
山沢(静吾)家初代
1895年 - 1897年
次代
山沢幾太郎