小早川祐景
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 建武5年/延元3年2月1日(1338年2月21日)[1] |
別名 | 又四郎(通称)[1]、亮景(別表記) |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 |
主君 | 守邦親王→足利尊氏 |
氏族 | 竹原小早川氏 |
父母 | 父:小早川景宗[1] |
兄弟 | 祐景、高平 |
子 |
重景[1]、万福丸[1]、福一 養子:景継 |
小早川 祐景(こばやかわ すけかげ[2])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。小早川氏の第3代。父は小早川景宗。
生涯
[編集]元弘3年(1333年)4月、足利高氏(後の尊氏)が丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で鎌倉幕府へ反旗を翻し、諸国に軍勢催促状を発すると、祐景はこれにいち早く馳せ参じ、足利軍の一員として六波羅探題を攻め落とす。この時、本宗家沼田小早川氏の小早川貞平は六波羅探題と行動を共にし、北条一族自決の場を脱出し本国へ逃げ帰り建武政権に所領を没収されている。しかし同年以来、竹原小早川氏も建武政権に度々所領を没収されているようである。
建武2年・延元元年(1335年)、足利尊氏が建武政権から離反し、翌年(1336年)1月、京都で新田義貞の軍に敗れ九州へ向かい敗走する途上の2月に兵庫で兵を募ると、祐景はこれも参陣。尊氏から安芸国都宇、竹原庄地頭職の安堵を得る。この後は、足利氏に直属し南朝方と戦っていく。
建武5年・延元3年(1338年)2月1日、南朝方の軍勢と戦い、奈良で戦死した。
建武年間における小早川景宗・祐景父子の足利尊氏への軍功は大きく、これが竹原小早川氏の勢力拡大へと繋がっていくこととなる。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 今井尭ほか編 1984, p. 341.
- ^ 「祐」の読み方には「すけ」以外にも「まさ」「ます」「むら」「よし」などがあるが、建武元年(1334年)9月27日のものとされる「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(→『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 二九四号 P.170)では「小早川又四郎亮景(ママ)」と書かれており、「すけかげ」と読んでいたことが窺える。
参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。