小早川扶平
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明17年(1485年) |
死没 | 永正5年1月14日(1508年2月14日)[1] |
改名 | 又鶴丸(幼名)[1]、扶平 |
別名 | 又太郎[1] |
戒名 | 正法院惟三常因[1] |
官位 | 掃部助、兵部少輔[1]、掃部頭[1] |
氏族 | 小早川氏 |
父母 | 父:小早川敬平[1] |
子 | 興平[1]、義氏、船木常平[1] |
小早川 扶平(こばやかわ すけひら)は、戦国時代の武将。安芸・備後の国人領主。沼田小早川氏の当主。
文明17年(1485年)、小早川敬平の長男として生まれる。明応8年(1499年)、父の死去により家督を継いで当主となる。父の時代に小早川氏は勢力を拡大したが、扶平は室町幕府の管領・細川政元の勢力を後ろ盾にして文亀元年(1501年)に杉原氏の領地であった備後三原を自らの領土とした。永正元年(1504年)には備後三原の代官職を与えられた。これらは全て政元の計らいによるものである。
しかし永正4年(1507年)、細川政元が家臣によって暗殺され(永正の錯乱)、さらに政元によって追放されていた第10代将軍足利義稙が大内義興によって奉じられて上洛を開始すると、扶平は義興から上洛に参加するように圧力を受けるようになる。また、分家の竹原小早川氏の当主・小早川弘平も本家の扶平に反抗して大内義興に恭順するなど、事態が切迫していく中で扶平は心労により病に倒れ、去就を定めないまま永正5年(1508年)1月14日に死去した。跡を長男の興平が継いだ。24歳[1]で夭逝したが、子は3人いたとされている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。