小室重弘
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(小室屈山から転送)
小室 重弘(こむろ しげひろ、1858年(安政5年[注釈 1]9月[1][2])- 1908年(明治41年)6月13日[1][3])は、明治期のジャーナリスト、政治家、詩人。衆議院議員。号・屈山[4]。
経歴
[編集]武蔵国江戸、のちの東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町[2](東京市渋谷区を経て現東京都渋谷区)の宇都宮藩江戸藩邸で同藩士の家に生まれる[5]。漢籍を修めた[1][2][4]。
佐久山で自由民権運動を進めた[3][5]。田中正造の要請で栃木新聞(現下野新聞)幹事に就任し[1][2][3][4][5]、栃木県会書記となる[5]。国会開設運動に加わる[5]。1881年(明治14年)自由新聞に転じ[1][2][5]、新中新報に移った[5]。その後、長野県で活動[5]。1889年(明治22年)新愛知新聞主筆に就任した[4][5]。
1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(愛知県第2区、自由党)で初当選し[5][6]、その後、第5回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[1][2]。
1906年(明治39年)山陽新報(現山陽新聞)主筆となり[1][2][3][4][5]、やまと新聞社に転じた[3][5]。その後病を患い、1908年6月に病死した[3]。
国政選挙歴
[編集]- 第3回衆議院議員総選挙(愛知県第2区、1894年3月、自由党)当選[6]
- 第4回衆議院議員総選挙(愛知県第2区、1894年9月、自由党)当選[7]
- 第5回衆議院議員総選挙(愛知県第2区、1898年3月、自由党)当選[7]
- 第7回衆議院議員総選挙(愛知県郡部、1902年8月、立憲政友会)落選[5][8]
- 第8回衆議院議員総選挙(愛知県郡部、1903年3月、立憲政友会)落選[5][8]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『栃木県歴史人物事典』267頁では1857(安政4)。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。