安倍東人
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時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 延暦18年1月28日(799年3月9日) |
別名 | 阿倍東人 |
官位 | 従四位上刑部卿 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 安倍氏 |
父母 | 父:阿倍沙弥麻呂?阿倍安麻呂? |
子 | 広主、浄足、寛麻呂 |
安倍 東人(あべ の あずまひと)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏は阿倍とも記される[1]。参議・阿倍沙弥麻呂の子とする系図がある。官位は従四位上・刑部卿。
経歴
[編集]天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱後に従五位下に叙爵。天平神護3年(767年)伊勢守を務めていたが、同国度会郡の等由気の宮(現在の豊受大神宮)の上に五色の瑞雲が立ち上って宮の上を覆ったとして、雲の形を書写して進上した。この頃平城京でも同様に瑞雲が見られ、これらを契機に神護景雲への改元が行われ、東人は従五位上に昇叙された[2]。
神護景雲3年(770年)称徳天皇の崩御後まもなく中務大輔に任ぜられて京官に復帰し、次いで宮内大輔に転じる。光仁朝では大蔵大輔・豊後守などを歴任。のち、宝亀10年(779年)正五位下、宝亀11年(780年)正五位上、天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴い従四位下と、光仁朝末から桓武朝初頭にかけて順調に昇進した。
桓武朝では刑部大輔を経て、延暦4年(785年)従四位上・刑部卿に至る。
延暦18年(799年)1月28日卒去。最終官位は散位従四位上。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平宝字8年(764年) 10月7日:従五位下
- 時期不詳:伊勢守
- 天平神護3年(767年) 8月16日:従五位上
- 神護景雲3年(770年) 8月22日:中務大輔。9月16日:宮内大輔
- 宝亀3年(772年) 11月9日:大蔵大輔
- 宝亀7年(776年) 3月6日:豊後守
- 宝亀10年(779年) 正月23日:正五位下
- 宝亀11年(780年) 正月7日:正五位上
- 天応元年(781年) 4月15日:従四位下
- 天応2年(782年) 2月7日:刑部大輔
- 延暦4年(785年) 7月29日:刑部卿。8月7日:従四位上
- 延暦18年(799年) 正月28日:卒去(散位従四位上)