宇喜多秀継
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 慶長4年(1599年) |
死没 |
明暦3年3月6日(1657年4月19日) または同年2月5日(3月19日) |
別名 | 秀繼、通称:小平次(小平治) |
戒名 | 秀光院殿運照居士 |
墓所 | 東京都八丈町の宗福寺および長楽寺が菩提所、大賀郷の稲場墓地に墓石 |
氏族 | 宇喜多氏(浮田氏) |
父母 | 父:宇喜多秀家、母:豪姫 |
兄弟 | 秀高、秀継 |
子 | 秀律(半助)、マツ、藤松 |
宇喜多 秀継(うきた ひでつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての人物。父は宇喜多秀家。
生涯
[編集]慶長4年(1599年)、備前岡山の大名・宇喜多秀家の次男として生まれる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの宇喜多氏の敗戦後、薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流され、明暦3年(1657年)3月6日に病死。享年60。
秀継には3児あり、長男・秀律(半助)[1]、長女・マツ[2]、次男・藤松[3]。
その後、秀継の子孫は庶流のため浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家の3家を興す。明治の恩赦により、宇喜多7家は八丈島を離れたが、のちに浮田半七家は帰島し、その子孫は東京都八丈支庁八丈町大賀郷に在住している。なお、秀継から11代後の末裔である浮田秀典(半平)は、八重根に港を開いた事績を讃えられ、浮田半平功労碑を建てられている[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 岡山市 編「国立国会図書館デジタルコレクション 宇喜多秀家史料」『岡山市史. 第2』岡山市、1922年 。
- 立石定夫『戦国宇喜多一族』(新人物往来社、1988年、絶版)ISBN 978-4-404-01511-2
- 近藤富蔵『八丈実記 第1巻-第7巻』緑地社、1964-1976。