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宇喜多秀継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宇喜多秀継 / 浮田秀継
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 慶長4年(1599年
死没 明暦3年3月6日1657年4月19日
または同年2月5日3月19日
別名 秀繼、通称:小平次(小平治)
戒名 秀光院殿運照居士
墓所 東京都八丈町宗福寺および長楽寺が菩提所、大賀郷の稲場墓地に墓石
氏族 宇喜多氏(浮田氏)
父母 父:宇喜多秀家、母:豪姫
兄弟 秀高秀継
秀律(半助)、マツ、藤松
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宇喜多 秀継(うきた ひでつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての人物。父は宇喜多秀家

生涯

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慶長4年(1599年)、備前岡山大名・宇喜多秀家の次男として生まれる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの宇喜多氏の敗戦後、薩摩島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流され、明暦3年(1657年)3月6日に病死。享年60。

秀継には3児あり、長男・秀律(半助)[1]、長女・マツ[2]、次男・藤松[3]

その後、秀継の子孫は庶流のため浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家の3家を興す。明治の恩赦により、宇喜多7家は八丈島を離れたが、のちに浮田半七家は帰島し、その子孫は東京都八丈支庁八丈町大賀郷に在住している。なお、秀継から11代後の末裔である浮田秀典(半平)は、八重根に港を開いた事績を讃えられ、浮田半平功労碑を建てられている[4]

脚注

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  1. ^ 寛永15年(1638年)生まれ。4児あり。
  2. ^ 寛永17年(1640年)生まれ。6児あり。
  3. ^ 正保3年(1646年)生まれ。4児あり。
  4. ^ 八丈島観光協会・浮田半平功労碑(宇喜多秀家の子孫)

参考文献

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関連項目

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