孝毅皇后
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曾皇后 | |
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南明の皇后 | |
在位 | 1645年 - 1646年 |
別称 | 孝毅貞烈慈粛賢明承天昌聖襄皇后 |
出生 |
1614年以前 |
死去 |
隆武2年8月9日(1646年9月17日) |
配偶者 | 隆武帝 |
子女 | 朱琳源 |
父親 | 曾文彦 |
母親 | 何氏 |
孝毅皇后(こうきこうごう、1614年以前[1] - 隆武2年8月9日(1646年9月17日))は、南明の隆武帝の皇后。姓は曾氏。
経歴
[編集]吉安府吉水県の人。書生の曾文彦と何氏として生まれた。崇禎5年(1632年)、朱聿鍵(後の隆武帝)は唐王となり、曾氏は王妃(正室)となった。溌剌とした、強く剛勇な気性であった。
崇禎10年(1637年)、朱聿鍵が庶人に落とされ、曾氏も共に鳳陽高墻(皇族の監獄)に収監された。獄中で、朱聿鍵は度重なる体罰によって一度は危篤状態に陥った。曾氏は常に夫の側から離れず、崇禎帝に抗議して上書した。崇禎17年(1644年)、崇禎帝が自殺し、弘光帝が南京で即位すると恩赦を受け、広西平楽府に移されることになった。移送中に弘光帝が清軍に囚われたとの報を受けた朱聿鍵は、自ら皇帝に即位し、曾氏は皇后となった。曾氏は政治に対し熱心に参画し、隆武帝とたびたび喧嘩をしていた。
隆武2年(1646年)7月、清軍が福州を攻撃すると汀州に逃れたが、翌月に清の李成棟の軍によって捕らえられた。途中、九龍灘において、清軍の警備が手薄な状態に乗じて、入水自殺した。10人ほどの宦官も殉死した。翌年、永暦帝により孝毅貞烈慈粛賢明承天昌聖襄皇后の諡号が贈られた。
子女
[編集]- 朱琳源(太子)- 兎唇を持つ。隆武2年6月1日(1646年7月13日)に生まれ、同年8月に混乱の中で死去した。
伝記資料
[編集]- 『南明史』
脚注
[編集]- ^ 19歳で朱聿鍵と結婚した。崇禎5年6月2日に朱聿鍵が唐王となった際に王妃となった。