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姜泰敏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

姜泰敏(カン・テミン、朝鮮語: 강태민、1922年 - 1960年10月[1])は満州国大韓民国軍人。最終階級は陸軍少将本貫晋州[2]

略歴

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満州国陸軍軍官学校第3期予科卒業。陸軍士官学校第58期に編入[3]。1949年、陸軍士官学校第8期特別第4班を卒業して任官(軍番13508番[3][4]。当初海軍に配属され、士官学校の生徒隊長を務めていたが[5]、のちに陸軍に転じ、独立装甲連隊第1大隊長[6]。1950年2月15日、第22連隊長(中領[7]として6月の朝鮮戦争勃発を迎え、新寺洞 - 果川の戦い朝鮮語版[8]、ついで7月24日から盈徳の戦いに参加[9]。8月9日に橋の過早爆破により多くの将兵が溺れ、1個大隊分の装備が遺棄されたため8月15日付で更迭された[10]。その後、国民防衛軍士官学校校長、第3師団参謀長を経て、1951年5月25日、朴正煕の後任として第9師団参謀長[11]。 戦争後期の52年10月13日、「16人の砲兵将星」[注釈 1]の一人に選抜され、光州砲兵学校での3か月間の訓練を経て米国に留学[12]、帰国後砲兵指揮官および准将進級。1953年、第9師団(師団長:李翰林少将)砲兵団長[13]。1957年8月、第26師団長[14]

戦後、第3軍団副軍団長、第8師団長を経て、少将昇進後に軍捜査副司令官を務めた。

1959年4月26日[15]、第2次粛軍断行の折、様々な事故の指揮責任により、第20師団長李貞錫准将と共に予備役に編入された[16]。この時すでに癌に侵されており、帰郷後は農業をやりながら療養生活を続けていたが[17]、翌1960年に死去。同年11月4日、少将追敍[18]

エピソード

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1期先輩の朴正煕とは親しい間柄で、毎週日曜になると朴の自宅を訪ねては歓談していたという[19]

フィリップ・チャールズ・ハビブの報告書によれば、白善燁の追従者であるという[20]

注釈

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  1. ^ 朴正煕大領(第2軍団砲兵団長 、大統領)、朴璟遠(第11砲兵団長、内務長官)・李奇建(第9砲兵団長、准将)、李明載(이명제、少将)、 宋錫夏(少将)、李昌禎(이창정、少将)、金永周(김영주、准将)、崔慶萬(中将)、朴炫洙(박현수、少将)、金東洙(第15砲兵団長、准将)、李春景(이춘경、第20砲兵団長、准将)、金相福(第1軍団砲兵団長、中将)、姜泰敏大領(第9師団砲兵団長、少将)、金東斌(第7師団砲兵団長、中将)、李喜権(이희권、第12師団砲兵団長、少将)、李白雨(이백우、第12砲兵団長、少将)の16人。

脚注

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  1. ^ 姜泰敏の墓の写真
  2. ^ 姜泰敏” (韓国語). 辛鐘友人名事典. 2016年6月7日閲覧。
  3. ^ a b 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、35頁。 
  4. ^ 6·25 전쟁사 제1권- 전쟁의 배경과 원인” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 333. 2018年7月6日閲覧。
  5. ^ “済州開発50年の序幕を開く 1. 5.16と最年少済州道知事発令(제주개발 50년의 서막을 열다 1. 5.16과 최연소 제주도지사 발령)”. 済州日報. (2010年12月31日). http://www.jejunews.com/news/articleView.html?idxno=775942 2024年12月4日閲覧。 
  6. ^ “国軍騎兵の創設と終末(국군 기병대의 창설과 종말)”. 朝鮮日報. (2006年10月3日). http://bemil.chosun.com/nbrd/bbs/view.html?b_bbs_id=10065&num=1409 2016年7月1日閲覧。 
  7. ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、209頁。 
  8. ^ 新寺洞 - 果川地区の戦い” (韓国語). 戦争記念館. 2016年6月8日閲覧。
  9. ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 下巻』、157頁。 
  10. ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 下巻』、223頁。 
  11. ^ “県里敗戦の要因 - 人事の乱脈(현리 패전의 한 요인 - 인사의 난맥)”. 朝鮮日報. (2010年12月17日). http://bemil.chosun.com/nbrd/bbs/view.html?b_bbs_id=10074&num=684 2016年6月8日閲覧。 
  12. ^ 韓国初の4星将軍 白善燁(한국 첫 4성장군 백선엽)” (韓国語). 趙甲濟ドットコム. 2016年7月1日閲覧。
  13. ^ 韓國戰爭史第9巻 對陣末期(1953.1.1~1953.7.27)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 275. 2018年9月22日閲覧。
  14. ^ “師團長級異動” (朝鮮語). 부산일보. (1957年8月7日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19570807000015 2019年10月24日閲覧。 
  15. ^ “日誌” (朝鮮語). 부산일보. (1959年5月4日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19590504000025 2019年10月24日閲覧。 
  16. ^ “二次肅軍을 斷行” (朝鮮語). 부산일보. (1959年4月27日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19590427000089 2019年10月24日閲覧。 
  17. ^ 1962年、米大使館機密文書” (韓国語). 新東亜. 2016年7月1日閲覧。
  18. ^ “故姜泰繁准將 少將으로追敍” (朝鮮語). 부산일보. (1960年11月4日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19601104000017 2019年10月24日閲覧。 
  19. ^ 朴正煕とその時代(3)反正作戦の挫折 心豊かな陸軍大学時代” (韓国語). 趙甲濟ドットコム. 2016年6月7日閲覧。
  20. ^ “1962년 미 대사관 기밀문건 10/22” (朝鮮語). 新東亜. (2010年3月3日). https://shindonga.donga.com/3/all/13/109221/10 2021年4月3日閲覧。 
軍職
先代
安椿生
第8師団長
第14代?:1957? - 1959?
次代
金貞武