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李奇建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李奇建
生誕 1919年
死没 不明
所属組織 満州国軍
朝鮮人民軍
大韓民国陸軍
最終階級 中尉(満州国軍)
少佐(朝鮮人民軍)
准将(韓国陸軍)
除隊後 韓国在郷軍人会会長
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李奇建
各種表記
ハングル 이기건
漢字 李奇建
発音: イ・ギゴン
日本語読み: い・きけん
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李 奇建(イ・ギゴン、이기건)は、大韓民国軍人陸軍准将として退官後、韓国在郷軍人会会長、国定教科書会社取締役、韓国反共連盟理事等の地位に就いた[1]。別名は李己虔이기건[2]創氏改名時の日本名西村武雄[2]

経歴

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1919年、平安北道に生まれる[3]。少年期は中国東北部奉天省臨江県長白県で過ごし、そこで中国人の世話になっていたため、中国人と同じくらい中国語に熟達し、中国人の習慣もよく知っていた[4]。この能力を通化県駐在の日本人特務機関長に買われて、抗日武装闘争に対する宣撫工作を行う「金日成帰順特別工作班」で帰順工作に従事した[4]。安東中学を卒業後、新京軍官学校入学(生徒隊予科第1連第4区隊砲兵科[2])。同期の朝鮮人は13人であったが、李以外は皆竜井市の光明中学出身であった[5] 。1942年、新京軍官学校第1期卒業[3]

1945年8月、三江省勃利県で終戦を迎えた[6]。ソ連軍に武装解除され集団収容所に入れられたが、そこから脱出してソウルに向かった[6]

1945年9月下旬、ソウルに到着して呂運亨を補佐した[7]。10月初旬、呂運亨から金日成に密書を伝達する任務を受けて越北[7]。密偵教育をする鎭南浦学院で教授として働き、やがて共産党に入党し、義州農業学校副校長となった[8]。1946年、保安幹部第1訓練所の隊列参謀、第4課長として人員の補充・組織に関する業務を受け持った[9]。1947年、朝鮮人民軍に入隊して第1師団砲兵連隊副連隊長(少佐)[3][10]。しかしある日「人民軍からの追放が決定した」と言われ、政治保衛部員から身柄を引き渡され拘禁された[11]。拘束された翌日から自叙伝を書くように言われ、この自叙伝をうまく書いたことと労働党組織部長の金一の斡旋もあり1週間ほどで釈放された[11]

1948年5月、韓国に越南した[12]丁一権らの計らいで[13] 陸軍士官学校に入学し、同年末に特別第7期卒業(軍番11574番[14])。砲兵第1大隊長、第15連隊副連隊長、第3連隊長、砲兵団長、師団砲兵司令官、軍団砲兵司令官、第26師団長等を歴任[15]。1958年、陸軍大学在学中の不正行為により予備役編入[16]。国定教科書株式会社顧問、内外問題研究所理事長、大韓体育会理事などを務めた。

年譜

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  • 1948年11月 - 砲兵司令部大隊長[17]
  • 1950年4月 - 陸軍本部作戦局次長[17]
  • 1950年8月 - 第25連隊長[18]
  • 1950年9月 - 第3連隊長[19]
  • 1951年11月17日 - 陸軍第1訓練所南済州管区衛戍管区代行官代理[20]
  • 1952年10月 - 陸軍砲兵学校入学[21][22]
  • 1953年5月 - 第9野戦砲兵団長[17]
  • 1954年7月 - 第26師団長[3]
  • 1957年8月 - 陸軍大学入校[23]
  • 1958年 - 予備役編入[3]
  • 1962年 - 大韓射撃協会副会長[24]
  • 1963年 - 国定教科書株式会社顧問[24]
  • 1965年 - 韓国反共連盟理事[3]
  • 1968年 - 内外問題研究所理事[24]
  • 1969年 - 同所理事長[3]
  • 1970年 - 大韓体育会理事[3]

叙勲

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出典

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  1. ^ 이기건 ( 李奇建 )”. 国史編纂委員会. 2014年10月23日閲覧。
  2. ^ a b c 細谷真美館 1976.
  3. ^ a b c d e f g h 佐々木 1976, p. 39.
  4. ^ a b 飯倉 2021, p. 241.
  5. ^ 정운현 (2004年8月16日). “"목표 위해 죽음 불사할만큼 성실" - 우등 성적으로 4년 만에 '황군' 소위”. 오마이뉴스. http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000204062 2015年8月9日閲覧。 
  6. ^ a b 飯倉 2021, p. 237.
  7. ^ a b 김선호 2020, p. 300.
  8. ^ 飯倉 2021, p. 238.
  9. ^ 飯倉 2021, p. 239.
  10. ^ 김선호 2020, p. 453.
  11. ^ a b 飯倉 2021, p. 240.
  12. ^ 김선호 2020, p. 536.
  13. ^ “인민군서 월남-예지역 준장 이기건씨의 6.25체험기”. 中央日報. (1998年6月26日). http://m.koreadaily.com/read.asp?page=26482&branch=NEWS&source=&category=society&art_id=92456 2015年8月9日閲覧。 
  14. ^ 佐々木 1976, p. 36.
  15. ^ 飯倉 2021, p. 233.
  16. ^ “1962년 미 대사관 기밀문건 11/22” (朝鮮語). 新東亜. (2010年3月3日). https://shindonga.donga.com/3/all/13/109221/11 2021年5月31日閲覧。 
  17. ^ a b c 国防部戦史編纂委員会 1971, p. 468.
  18. ^ 佐々木 1977, p. 207.
  19. ^ 佐々木 1977, p. 322.
  20. ^ (PDF) 제주4・3사건자료집5[군경자료편1]. 제주4·3사건진상규명및희생자명예회복위원회. (2002). p. 95. ISBN 89-89205-28-X. http://43archives.or.kr/viewPdf/BBS_201611141133375260.pdf.do?uploadFileSeq=44131 
  21. ^ “<865>老兵이 걸어온 길-115-포병장교 무더기 진급” (朝鮮語). 국방일보. (2008年11月27日). http://kookbang.dema.mil.kr/kookbangWeb/view.do?ntt_writ_date=20081127&parent_no=1&bbs_id=BBSMSTR_000000000228 2018年10月16日閲覧。 
  22. ^ “<866>老兵이 걸어온 길-116-미군의 반대를 뚫다” (朝鮮語). 국방일보. (2008年12月1日). http://kookbang.dema.mil.kr/kookbangWeb/view.do?ntt_writ_date=20081201&parent_no=1&bbs_id=BBSMSTR_000000000228 2018年10月16日閲覧。 
  23. ^ “師團長級異動” (朝鮮語). 부산일보. (1957年8月7日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19570807000015 2020年2月22日閲覧。 
  24. ^ a b c 佐々木 1977, p. 539.
  25. ^ Lee Kee Keun”. Military Times. 2016年2月20日閲覧。

参考文献

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  • 『陸軍軍官學校 第一期生豫科卒業記念 康德八年』細谷眞美舘、1941年。 
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。 
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 下巻 漢江線から休戦まで』原書房、1977年。 
  • 飯倉江里衣『満州国軍朝鮮人の植民地解放前後史 日本植民地下の軍事経験と韓国軍への連続性』有志舎、2021年。ISBN 978-4-908672-47-7 
  • 韓國戰爭史第4巻 總反擊作戰期(1950.9.15~11.30)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月20日閲覧。
  • 김선호 (2020). 조선인민군 : 북한 무력의 형성과 유일체제의 기원. 한양대학교 출판부. ISBN 9788972186809 

外部リンク

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