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奥田務

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おくだ つとむ

奥田 務
生誕 (1939-10-14) 1939年10月14日(85歳)
日本の旗 日本三重県津市
出身校 慶應義塾大学法学部
ニューヨーク州立ファッション工科大学
職業 実業家
親戚 奥田碩(兄)
鬼頭白雨(叔父)
米川みちこ(従姉)
栄誉 フィンランド勲章(2015年)
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奥田 務(おくだ つとむ、1939年(昭和14年)10月14日 - )は、日本実業家J.フロント リテイリング特別顧問大丸社長を務め、松坂屋との経営統合にあっては主導的役割を担った。

来歴・人物

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三重県津市で7人兄弟の5人目として生まれる。祖父奥田喜一郎は明治末期に奥田証券を津市に創業。気性が荒く、芦屋市にも別邸を構えた相場師であった。奥田証券は大正期に入ると、大阪にも拠点を構え、三重県で最大の証券会社に成長した。父は慶應義塾大学経済学部の出身で、歌舞伎鑑賞が趣味の温和な性格だった。6人兄弟であるが、当時としては珍しく、父を含めてほとんどが東京六大学を出ていた。戦争によって母方の祖母が住んでいた飯南郡上蛸路(現・松阪市)に疎開し、祖母の家の近くで借家住まいを続けた。この母方の一族・常保家は百済からの渡来人の家系といい、代々鋳造師を輩出し、歴史学者が調査に訪れるほど歴史ある家系だったという[1]

7歳違いの兄・奥田碩は家業を継ぐことも踏まえ、地元のトヨタ自販に入社。務は高校卒業時、歴史学者になりたいと考えたが、父から笑われ、断念。高校ではあまり勉強しておらず、会社を継ごうと思っていたことから、大学を受験しないまま、高校を卒業した。卒業後、一橋大学を出ていた碩や、東京大学、慶應義塾大学などを出ていた叔父、父らの影響から、東京の大学に進学しようと決意し、家で受験勉強に励んだ。ただ、家業を継ぐことを考えていたこともあり、祖母から期待されていた努力家の兄とは違い、真剣に勉強をせず、趣味の推理小説クラシック音楽を楽しむ生活を送った。しかし二浪時には、新宿下落合に下宿し代々木予備校に通い、国立大学受験者用の特進コースで学んだ。やがて国立大学より受験科目の少ない私立大学を受験しようと決め、慶大の法学部経済学部商学部に合格した[2]

1960年法学部に入学し国際公法を学ぶ。総合商社への就職を夢見ていたが、『流通革命』(林周二著)を読み就職先に小売業も考えるようになり、学校推薦を貰い、当時日本一の百貨店であった大丸で形だけの面接を受け、内定を得た[3]

大丸入社

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1964年大丸に入社。5ヶ月間の研修を経て、京都店の旅行用品売り場を担当した。しかし、希望した東京店への配属ではなかったうえ、雑用の仕事が多く、会社をやめることも考えた。1966年に外商部門に異動。30代前半でニューヨーク州立ファッション工科大学留学と米大手百貨店ブルーミングデールズへの研修チャンスを得て渡米。バイヤーライントレーニーとして採用された[3]。帰国後新店舗開設の責任者に選ばれ、梅田店の開業で成功を収める。奥田流の百貨店運営術は「梅田学派」と呼ばれた。社長に就任してからは国内不採算店閉鎖、海外の事業撤退、人員削減などを行い、「負の遺産の整理」と「業務オペレーションの改革」などの守りと攻めの改革による経営を進め、札幌店・心斎橋店南館開設、梅田店増床を手掛けた。また松坂屋との経営統合にあたっても主導的な役割を担った[4]

このほか関西経済同友会代表幹事、21世紀臨調顧問会議代表、関西経済連合会副会長、MBSメディアホールディングス監査役、りそなホールディングス取締役なども務めた。

経歴

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著作

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連載

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社会的活動・発言など

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  • 『変化を目に見える形にする』[4]
  • 『経営を変えるには社員全員の健全な危機意識と高い目標が必要』
  • 『明治時代でも現代でも、会社が潰れそうになる原因は顧客の軽視だ』
  • 『経営改革の成果が出ても、改革を減速しない』
  • 『社員との危機意識のズレがあっても、目の前にある危機を説き続ける』

家族・親族

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奥田家は第2次大戦前まで資産家として名が通るが、昭和40年代前半の証券不況のあおりで奥田証券は経営破綻した。後年、大阪証券取引所役員を担い、当時東京証券取引所の役員を務めていた兄・碩と、合併により誕生した日本取引所グループの役員会で会った際には、証券業界に携わる2人の姿を見たら「祖父と父が見たら喜ぶやろね」と語り合ったという[1]

歌人の鬼頭白雨は叔父。児童文学作家の米川みちこ従姉

脚注

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  1. ^ a b 奥田務「私の履歴書 2」『日本経済新聞』2015年12月2日
  2. ^ 奥田務「私の履歴書 8」『日本経済新聞』2015年12月8日
  3. ^ a b 奥田務「私の履歴書 10」『日本経済新聞』2015年12月10日
  4. ^ a b 日経ビジネス (2009年7月13日). “【時代のリーダー】奥田 務・J・フロントリテイリング社長 ネアカな理詰めの改革者”. 日経ビジネスオンライン. http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090723/200755/?rt=nocnt 2014年11月14日閲覧。 
  5. ^ “大丸社長に部長を大抜てき 奥田氏は会長兼CEOに”. 共同通信. (2003年4月17日). https://web.archive.org/web/20141129014838/http://www.47news.jp/CN/200304/CN2003041701000320.html 2014年11月14日閲覧。 
  6. ^ “Jフロント、奥田取締役が5月退任”. 日本経済新聞. (2014年4月10日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ100DR_Q4A410C1TJ2000/ 2014年11月14日閲覧。 
  7. ^ “Jフロント、奥田相談役が特別顧問に”. 日本経済新聞. (2018年6月7日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31490590X00C18A6H63A00/ 2024年12月7日閲覧。 

関連項目

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先代
下村正太郎
大丸社長
第6代:1997年 - 2003年
次代
山本良一
先代
岡田邦彦
J.フロント リテイリング会長
第2代:2010年 - 2013年
次代
茶村俊一
先代
寺田千代乃
関西経済同友会代表幹事
2003年度 - 2004年度
次代
松下正幸