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太田栄次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太田 栄次郎
『歩兵第三十七聯隊史 : 附・下士優遇及志願心得』より
生誕 1857年11月12日
静岡県
死没 (1927-07-17) 1927年7月17日(69歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1877年 - 1912
最終階級 陸軍少将
指揮 歩兵第10旅団長
歩兵第37連隊長
歩兵第45連隊長
歩兵第64連隊長
戦闘 日清戦争
日露戦争
勲章 従四位
二等第一雙龍寶星英語版
出身校 陸軍士官学校
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太田 栄次郎(榮次郎、おおた えいじろう、1857年11月12日(安政4年9月26日[1][2][注釈 1])- 1927年昭和2年)7月17日[1][3])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将位階および勲等、軍功は従四位勲三等功三級

経歴

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本籍静岡県士族小森龍治の二男に生まれ、1971年(明治4年)東京府士族の太田なつの養子となる[1][2]沼津兵学校附属小学校(現沼津市立第一小学校)で学んだ[1]1875年(明治8年)2月、陸軍士官学校(旧1期)に入学[1][2][4]1877年(明治10年)2月、西南戦争に従軍[4]。同年12月、士官学校を卒業し陸軍歩兵少尉に任官した[1][2][4][5]日清戦争に従軍[2]

1903年(明治36年)3月、歩兵第45連隊長に発令され日露戦争に出征し、同年12月、歩兵大佐に昇進[1][2][3][6]大石橋の戦い遼陽会戦に参戦し、沙河会戦直前に戦傷を受けた[1][3][6]1905年(明治38年)7月、歩兵第64連隊長に転じ、歩兵第37連隊長を経て、1907年(明治40年)11月、陸軍少将に昇進し歩兵第10旅団長に就任した[1][2][3][6]1912年(明治45年)4月、予備役に編入された[1][3][6]

墓所は新宿区常圓寺戒名は荘厳院殿玄龍日輝居士。妻は外交官稲垣満次郎の養妹の道子。次男の久元は東海銀行銀行員。長女・栄子は楠本正継に嫁いだ[7]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』150頁では安政3年9月。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『沼津兵学校の研究』622-623頁。
  2. ^ a b c d e f g 『人事興信録』第4版、を102頁。
  3. ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』150頁。
  4. ^ a b c 『市ヶ谷台に学んだ人々』1頁。
  5. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』49、51頁。
  6. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』51頁。
  7. ^ 『人事興信録 第20版 上』人事興信所、1959年、く23頁。
  8. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録』第4版、1915年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 桑原嶽『市ヶ谷台に学んだ人々』文京出版、2000年。
  • 樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-03780-8