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大関増恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大関増恒
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 貞享3年11月19日1687年1月2日[1]
死没 宝暦9年1月17日1759年2月14日[2]
改名 大助(幼名)[2]→増恒→得翁(号)[2]
別名 弾正[2]
戒名 慧日院殿義天得翁大居士/義天得翁慧日院[2]
墓所 栃木県大田原市の大雄寺
官位 従五位下信濃[2]能登
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
下野黒羽藩
氏族 大関氏
父母 父:大関増茂
正室:戸田忠章[2]
大助(早世)[2]、岩(北条氏貞正室)、増興
増満小出英孫加藤泰広正室、
平野長賢正室(後金田正峯継々室)、女子、秋元長継大田原清位室、増山正柱
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大関 増恒(おおぜき ますつね)は、江戸時代前期から中期にかけての大名下野国黒羽藩6代藩主。

略歴

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貞享3年(1686年)11月19日、大関増栄の世子・増茂の庶長子として生まれる。

父が早世したため、増栄が元禄元年12月13日に死去すると、翌元禄2年(1689年)1月14日、4歳でその跡を継いだ[2]。1月18日、祖父・増栄の遺物である相州行光の刀を献上した[2]。元禄9年(1696年)10月28日、江戸幕府5代将軍徳川綱吉御目見し、宝永6年(1709年)3月7日、従五位下・信濃守に叙任する[1][2]

元文3年(1738年)3月25日、次男・増興に家督を譲って隠居した[1][2]宝暦7年(1757年)10月8日、得翁と号した[1]

宝暦9年(1759年)1月17日、江戸藩邸にて死去した。享年74。

系譜

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父母

正室

子女

脚注

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  1. ^ a b c d 『大関黒羽家譜』
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』

出典

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