大関増栄
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永16年(1639年) |
死没 | 貞享5年6月21日(1688年7月18日)/元禄元年12月13日(1689年1月4日)[1][2] |
改名 | 亀千代(幼名)[1]→増栄 |
別名 | 与六郎[1]、主馬[1] |
戒名 | 本源院殿心印元証大居士/心印元証本源院[1] |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
官位 | 従五位下・信濃守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 大関氏 |
父母 |
父:大関高増、母:分部光信娘 養父:大関増親 |
兄弟 |
増親、増栄、増公、増俊、屋代忠正正室、 村上正尚室、神尾守好室、神谷某室、 浄法寺高政室、金丸資時室、杉原某室 |
妻 | 正室:小出吉重娘[1] |
子 | 増茂、女子、右衛門[1]、伊丹勝守正室(後神保親茂正室)、万治郎[1] |
大関 増栄(おおぜき ますなが)は、江戸時代前期の大名。下野国黒羽藩5代藩主。
寛永16年(1639年)、3代藩主・大関高増の次男として生まれる[2]。
正保3年(1646年)、父の死去を受け兄・増親が家督を継いだ際、兄より1000石を与えられて交代寄合となる。寛文2年(1662年)4月、増親が嗣子無くして早世するとその養子となり[1]、6月21日[3]に家督を継いだ[2]。7月23日、江戸幕府4代将軍・徳川家綱に御目見し、父の遺物である延寿国時の刀を献上した[1]。
寛文4年(1664年)12月28日、従五位下・信濃守に叙任される[1][2]。寛文11年(1671年)3月28日、大阪加番に任じられた[2]。
貞享5年(1688年)6月21日(異説として元禄元年(1689年)12月13日)、江戸藩邸にて死去。享年50。
子の増茂は早世していたため、嫡孫の増恒が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 小出吉重の娘
子女