コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

加原武門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大泉浩二から転送)
かはら ぶもん
加原 武門
本名 川原 毅 (かわはら たけし)
別名義 大泉 浩路 (おおいずみ こうじ)
大泉 浩二 (おおいずみ こうじ)
大泉 慶治 (おおいずみ けいじ)
生年月日 (1904-06-13) 1904年6月13日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本福岡県
職業 俳優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー)、テレビドラマ
活動期間 1930年 - 1972年
テンプレートを表示

加原 武門(かはら ぶもん、1904年6月13日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名は川原 毅(かわはら たけし)[1][5]、旧芸名大泉 浩路(おおいずみ こうじ)、大泉 浩二(おおいずみ こうじ)、大泉 慶治(おおいずみ けいじ)[1][3][4]

人物・来歴

[編集]

1904年(明治37年)6月13日福岡県に生まれる[1][5]

長じて東京に移転し、中央大学政経部に進学するも中途退学し、作家・大泉黒石の紹介を得て1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇部に入社した[1]大部屋時代を経て、1930年(昭和5年)8月29日に公開された徳永フランク監督の『太洋の心』、1931年(昭和6年)3月20日公開に公開された村田実監督の『ミスター・ニッポン 前篇』あたりから役がつき始め、黒石から名を得て「大泉 浩路」として映画界にデビューしている[1][4][7]。同年6月12日公開された溝口健二監督の『しかも彼等は行く』に出演、翌1932年(昭和7年)には、溝口の移籍した入江たか子入江プロダクションへ移籍、『満蒙建国の黎明』、『滝の白糸』に出演する[1][4]。そのまま入江プロダクションの配給提携先である新興キネマに残り、同社の現代劇部が東京に移転し、新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)が開かれると、大泉も同撮影所に異動になり、「大泉慶治」と芸名を改めた[1][4][3]。同年末、マキノ正博が京都に新しくトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所を開くとここへ移籍、現代劇のほか、剣戟映画にも出演した[3]。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔大内弘ら大半の俳優とともに新興キネマにもどり、「加原武門」と芸名を改めて東京撮影所で再スタートした[1][2]

1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、新興キネマは合併して撮影所は閉鎖されたが、加原は同社に継続入社する[1][2]。現代劇部門は大映東京撮影所(かつての日活多摩川撮影所、現在の角川大映撮影所)に集約された[1][2]第二次世界大戦終結後、撮影所の労働組合の執行委員長を務めている[1]。1954年(昭和29年)4月、日活が調布に新しく日活撮影所を建設、製作を再開するにあたり、加原は同社に移籍した[1][2]。以降、1972年(昭和47年)まで日活に所属し、脇役俳優を続けた[1][2]。同年引退、以降の消息は知られていない[1][2]没年不詳

芸名

[編集]

フィルモグラフィ

[編集]

すべてクレジットは「出演」である[2][3][4][5][6]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9][10]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

日活太秦撮影所

[編集]

すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[4][7]。すべて「大泉浩路」名義である[4][7]

新興キネマ

[編集]

特筆以外すべて製作は「新興キネマ」(のちの新興キネマ京都撮影所)、配給は「新興キネマ」である[4]。すべて「大泉浩路」あるいは「大泉浩二」名義である[4]

  • 満蒙建国の黎明』 : 監督溝口健二、製作入江プロダクション中野プロダクション・新興キネマ、配給新興キネマ、1932年9月29日公開[1]
  • 滝の白糸』 : 監督溝口健二、応援監督清涼卓明、製作入江プロダクション、配給新興キネマ、「大泉浩二」名義、1933年6月1日公開 - 権次、105分尺で現存(NFC所蔵[10]
  • 『神風連』 : 監督溝口健二、製作入江プロダクション、配給新興キネマ、「大泉浩路」名義、1934年2月1日公開 - 邯鄲の辰
  • パパの青春』 : 監督上野信二郎、「大泉浩路」名義、1934年4月20日公開 - 鏡子の叔父幸兵衛
  • 若衆髷』 : 監督村田正雄、「大泉浩路」名義、1934年5月10日公開 - 覚之助の父小三郎
  • 霧笛』 : 監督村田実、「大泉浩二」名義、1934年5月10日公開 - 船長、94分尺で現存(NFC所蔵[10]
  • 河の上の太陽』 : 監督内田吐夢、「大泉浩二」名義、1934年5月17日公開 - 香具師のサクラ
  • 不良少年の父』 : 監督曽根純三、「大泉浩路」名義、1934年7月26日公開 - 松岡峰三
  • 泥濘を往く女』 : 監督清涼卓明、「大泉浩路」名義、1934年8月15日公開 - スラバヤ丸の船長森田浩蔵

新興キネマ東京撮影所

[編集]
マリヤのお雪』(監督溝口健二、1935年)のカットタイトル。

特筆以外すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、配給は「新興キネマ」である[3]。すべて「大泉慶治」名義である[3]

マキノトーキー製作所

[編集]

すべて製作は「マキノトーキー製作所」、配給は「千鳥興行」である[3]。すべて「大泉慶治」名義である[3]

新興キネマ東京撮影所

[編集]

すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、配給は「新興キネマ」である[2][3][4]。初期の特筆以外すべて「加原武門」名義である[2][3][4]

  • 愛怨峡』 : 監督溝口健二、「大泉慶治」名義、1937年6月17日公開 - その夫浩太、89分尺で現存(NFC所蔵[9]
  • 歌姫懺悔』 : 監督久松静児、「大泉浩路」名義、1938年9月1日公開 - 岩崎専務
  • 女の魂』 : 監督久松静児、1939年4月1日公開 - 高瀬
  • 海棠の歌』 : 監督深田修造、1939年6月15日公開 - 編集長
  • 結婚問答』 : 監督田中重雄、1939年6月28日公開 - デパートの支配人小畑
  • 模範孝女の殺人』 : 監督青山三郎、1939年8月13日公開 - 平井恭助
  • 愛情一筋道』 : 監督高木孝一、1939年9月7日公開 - 広介の親友大蓮寺の住職小熊貞信
  • 涙痕』 : 監督田中重雄、1939年9月14日公開 - 大川清之輔
  • 『母』 : 監督田中重雄、1939年10月12日公開 - 家令
  • 母恋千鳥』 : 監督須山真砂樹、1939年12月24日公開 - 医師
  • 情熱の翼』 : 監督小石栄一、1940年2月14日公開 - スパイ王英昌(陳美昌)、72分尺で現存(NFC所蔵[8]
  • 或る女弁護士の告白』 : 監督深田修造、1940年4月28日公開 - 春子の父甚平
  • 太平洋行進曲』 : 監督深田修造・曽根千晴、1940年5月15日公開 - 松岡校長
  • 第二の虹』 : 監督小石栄一、1940年5月30日公開 - 村尾巡査
  • 悲運の姉妹』 : 監督伊奈精一、1940年7月25日公開 - 高木教頭
  • 真人間』 : 監督伊奈精一、1940年9月15日公開 - 古本屋主人、54分尺で現存(NFC所蔵[8]
  • 良人なきあと』 : 監督曽根千晴、1940年10月31日公開 - 諸木
  • 『激流』 : 監督小石栄一、1940年11月14日公開 - 綾子の父覚蔵、39分尺で現存(NFC所蔵[8]
  • 白夜の天使』 : 監督田中重雄、1941年1月14日公開 - 瀬古所長
  • 新生の歌』 : 監督沼波功雄、1941年2月28日公開 - 松波駿一郎博士(松波駿一)、64分尺で現存(NFC所蔵[8]
  • 猛獣使ひの姉妹』 : 監督深田修造、サーカスシーン監督萩野頼三、1941年3月29日公開 - 猛獣使いの谷口
  • 『大都会』 : 監督久松静児、1941年5月8日公開 - 慎一郎の叔父東平
  • くろがねの妻』 : 監督曽根千晴、1941年5月22日公開 - 三重県知事
  • 我が家の春』 : 監督青山三郎、1941年5月29日公開 - 銀行頭取野村
  • 素晴らしき結婚』 : 監督沼波功雄、1941年6月22日公開 - 大学教授杉山啓一
  • 旋風街』 : 監督久松静児、1941年7月8日公開 - 捜査課長
  • 春星夫人』 : 監督田中重雄、1941年9月28日公開 - 巡査
  • 嵐の中の乙女』 : 監督萩野頼三、1941年10月8日公開 - 前山
  • 太陽先生』 : 監督深田修造、1941年11月13日公開 - 織部家の家令
  • 舞ひ上る情熱』 : 監督小石栄一、1941年11月30日公開 - 部隊長
  • 逞しき愛情』 : 監督沼波功雄、1942年3月1日公開 - 高木英之助
  • 母よ嘆く勿れ』 : 監督深田修造、配給映画配給社、1942年4月16日公開 - 仲人、19分の部分が現存(NFC所蔵[8]

大映東京撮影所

[編集]

初期の特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、配給は「大映」である[2]。すべて「加原武門」名義である[2]

日活

[編集]

すべて製作・配給は「日活」である[2][6]。すべて「加原武門」名義である[2][6]

テレビドラマ

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p キネマ旬報社[1979], p.164.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 加原武門日本映画データベース、2012年12月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 大泉慶治、日本映画データベース、2012年12月7日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 大泉浩二、日本映画データベース、2012年12月7日閲覧。
  5. ^ a b c d 加原武門KINENOTE、2012年12月7日閲覧。
  6. ^ a b c d 加原武門日活データベース、2012年12月7日閲覧。
  7. ^ a b c d 大泉浩路、日活データベース、2012年12月7日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 加原武門、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月7日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h 大泉慶治、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月7日閲覧。
  10. ^ a b c 大泉浩二、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月7日閲覧。
  11. ^ 國定忠治 信州子守唄、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月7日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]