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大河内輝耕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大河内国子から転送)
大河内 輝耕
おおこうち きこう
貴族院議員・大河内輝耕
生年月日 (1880-11-18) 1880年11月18日
没年月日 (1955-05-02) 1955年5月2日(74歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
前職 東京地方専売局長
称号 従三位
帝都復興記念章
配偶者 大河内国子
子女 養子・大河内輝信
親族 義父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員)
義兄・徳川達孝(貴族院議員)
義兄・蜂須賀正韶(貴族院副議長)
義弟・徳川圀順(貴族院議長)
義弟・四条隆愛(貴族院議員)
義弟・徳川慶久(貴族院議員)
宗教 臨済宗

選挙区子爵議員
当選回数 4回
在任期間 1924年4月5日 - 1947年5月2日
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大河内 輝耕(おおこうち きこう、1880年明治13年〉11月18日[1] - 1955年昭和30年〉5月2日[2])は、明治期から昭和期にかけての華族政治家貴族院議員子爵。妻は徳川慶喜の八女の国子。

経歴

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上野国高崎藩最後の藩主・大河内輝声の長男として生まれる。1882年(明治15年)父の死により家督を相続し、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した[1][3]。1901年(明治34年)7月に学習院高等科を卒業して、東京帝国大学法科大学に入り、1905年(明治38年)に卒業した。同年11月、文官高等試験に合格し、大蔵省に入り、主計局に配属された。その後、大蔵書記官、主計局主計課長、専売局主事、大蔵参事官、専売局理事、東京地方専売局長などを歴任した[4]

1924年大正13年)4月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選[5][6]。1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した[2]第二次世界大戦中は、翼賛選挙における選挙干渉の危険性を指摘し[7]1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲の翌日、および14日に開かれた帝国議会では「人貴キカ物貴キカ」と人命を優先するよう政府を追及した[8]

国会質問

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●【1945年(昭和20年)3月11日、午前10時9分からの貴族院本会議】

政府のやることが全て後手に回っている。

例えば防空の問題。疎開の必要性を我々は主張していたが政府は一向に聞かない。

それどころか「疎開する者は非国民だ」とまで言いだした。

ぐずぐずしているうちに、昨日の被害、死傷者が出た。

●【同年 3月14日、貴族院本会議】大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を淡々と報告したのに対して

私の質問は、「人貴きか、物貴きか」と、こういう質問なんであります。

防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。

次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。

私は、人を助ける方がよいと思う。

消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。

内務大臣から隣組長などに、「火は消さなくてもよいから逃げろ」と言っていただきたい。

(これに対し、内務大臣は「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と答弁。)

栄典

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位階
勲章等

家族

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妻・国子(左)と輝耕(右)

妻の国子(1882-1942)は徳川慶喜と側室の八女として明治15年に静岡の徳川邸で生まれたが、学齢期に徳川家達家に預けられて育った。妹たちとともに大正天皇の妃候補に選ばれたが背が低いことから選から外れ、明治34年に輝耕に嫁いだ。佐佐木信綱の短歌会「竹柏会」で川田順と出会い、明治39年より不倫関係となったが、明治44年に川田が結婚し、翌年国子は夫を追って渡英、約20年後、国子側から川田に連絡があり、交流が復活、その後、夫や息子(養子)夫婦公認の交際が続いたが、56歳で脳溢血に倒れ、5年ほど寝たきりとなり死去した[12]。川田はのちに、川田と国子の不倫に輝耕が寛容であったのには深い理由があり、それが公表できたら二人の罪も軽減されるだろうが明らかにはできない、と含みのある書き方をしている[13]

実子はなく夫婦養子を取った。養子の輝信は浅野長之の二男、その妻富士子は侯爵四條隆愛の長女[14]

系譜

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出典

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  1. ^ a b 人事興信録 第5版』、を78頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1704046/1/359?keyword=%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%86%85%E8%BC%9D%E8%80%95 
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』39頁。
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ 人事興信録 第13版 上』、オ83頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2127086/1/364?keyword=大河内輝耕 
  5. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』39頁。
  6. ^ 『官報』第3484号、大正13年4月8日。
  7. ^ 清永聡『気骨の判決 東條英機と闘った裁判官』新潮新書、2008年。
  8. ^ “防空法で犠牲拡大 空襲時「逃げずに消火」:伝言 あの日から70年:特集・連載”. TOKYO Web (東京新聞). (2015年3月4日). オリジナルの2015年3月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150315193000/http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/Postwar70th/dengon70th/CK2015030402000204.html 2019年8月16日閲覧。 
  9. ^ 『官報』第1923号「叙任及辞令」1918年12月29日。
  10. ^ 『官報』第21号「叙任及辞令」1927年1月25日。
  11. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  12. ^ 葵の女 川田順自叙伝』、69頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1345252/1/42 
  13. ^ 葵の女 川田順自叙伝』、121 - 122頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1345252/1/71?keyword=深い理由 
  14. ^ 大河内輝耕『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
高崎大河内家初代
1884年 - 1947年
次代
華族制度廃止