四条隆愛
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四条隆愛 しじょう たかちか | |
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生年月日 | 1880年6月8日 |
没年月日 | 1938年10月2日(58歳没) |
称号 |
帝都復興記念章 従三位 |
配偶者 | 四条糸子 |
子女 | 長男・四条隆徳 |
親族 |
父・四条隆謌(貴族院議員) 義父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員) 義兄・徳川達孝(貴族院議員) 義兄・蜂須賀正韶(貴族院副議長) 義兄・大河内輝耕(貴族院議員) 義弟・徳川圀順(貴族院議長) 義弟・徳川慶久(貴族院議員) |
在任期間 | 1905年6月7日 - 1938年10月2日[1] |
四条 隆愛(しじょう たかちか、明治13年(1880年)6月8日[2] - 昭和13年(1938年)10月2日[2][3])は、明治後期から昭和前期の華族、陸軍軍人。陸軍騎兵少佐従二位勲三等侯爵となり、貴族院議員を務めた。元老院議官四条隆謌陸軍中将侯爵の子で、四条隆生の孫。四条家は古くは藤原魚名の三男末茂の子孫、隆季を始祖とし、四条大宮に居を構えた事から四条殿と呼ばれた。家格は羽林家。
経歴
[編集]父の死去に伴い1898年(明治31年)12月10日に家督を相続し侯爵を襲爵[2][4]。1905年(明治38年)6月7日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任した[5][6]。
1902年(明治35年)11月22日、陸軍士官学校(14期)を卒業[7][8]。1903年(明治36年)6月26日、陸軍騎兵少尉に任官[3][8]。陸軍騎兵実施学校(陸軍騎兵学校)教官、陸軍大学校馬術教官などを務めた[3]。
親族
[編集]- 父・四条隆謌
- 母・春子 - 元舞妓。長い間妾だったが、本妻没後、妻となる
- 姉・加根子(かね) - 三島弥太郎の妻
- 妻の糸子は江戸幕府最後の征夷大将軍である徳川慶喜公爵の娘(十女)。
- 子の隆徳は貴族院議員となり正四位勲四等に叙せられる。また、東京帝国大学農学部の教壇にもあがった。
- 娘富士子は大河内輝信(侯爵浅野長之二男、子爵大河内輝耕養子)に嫁ぐ。輝信の養父輝耕の妻国子と富士子の母糸子は姉妹。
栄典
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成 上巻』711頁。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』18頁。
- ^ 『官報』第4636号、明治31年12月12日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
- ^ 『官報』第6582号、明治38年6月10日。
- ^ 『陸軍士官学校』233頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』183頁。
- ^ 『官報』第1799号「叙任及辞令」1918年8月1日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 四条隆謌 |
侯爵 四条家第2代 1898年 - 1938年 |
次代 四条隆徳 |