大平喜間多
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大平 喜間多(おおひら きまた、1889年(明治22年)1月15日 - 1959年(昭和34年)[1])は、日本の郷土史家。地元の松代を中心に活躍し、『佐久間象山』『真田幸弘と恩田木工』などを著す。松代町会議員も務めていた。
生涯
[編集]長野県埴科郡寺尾村(現・長野市松代町東寺尾)に生まれる[2]。20歳前後で松代で発行されていた『勧業新聞』の記者になり、1913年(大正2年)に最初の書籍である『松代風土記』を発刊。その後、『中信時報』新聞社に移り、30歳で松代町史編纂主任に就任する[1]。また、1937年(昭和12年)から昭和30年代までは松代町会議員も務めていた[2]。
議員になってから活動はより狭い範囲になり、著書は多いが松代に関する小説的なものが多くなっていく。自らの職業を「郷土史家」ではなく「著述家」としていた大平は、自ら興味の赴く「郷土の歴史」に題材を求めた、あくまで一般的な著述を目指していたのではないか、とする指摘もある[3]。
1929年(昭和4年)には約10年をかけて『松代町史』を発刊。同年、埴科郷土研究会の創設に関わり、1932年(昭和8年)頃には北信郷土叢書刊行会を設立する[1]。
また、歌人としても活動しており、小学校の同級生で同郷の歌人・中村柊花と終生親交を持った。1959年(昭和34年)、胃がんにより70歳で死去した大平を悼んだ中村は、歌を10首詠んでいる。以下は、その中の3首である[4]。
- 「郷土史家と人も許して居し君の姿消えたるうら淋しさよ」
- 「克明に古文書漁りして廻り記憶の力殊にすぐれし」
- 「吾子持たぬことがいささか社会的名誉に走る種となりしか」
なお、大室古墳群の168号墳は大平が調査したため、「大平塚」とも呼ばれている[2]。
著作
[編集]年代順に並べる。なお、パブリックドメインで既にインターネット公開されているものはリンクを貼った。
- 『松代風土記』
- 『松代附近名勝図会』
- 『松代町史』
- 『真田幸弘公と恩田木工』信濃郷土文化普及会、昭和4年
- 『佐久間象山』
- 『佐久間象山逸話集』
- 『奇人か変人か赤帽さん』信濃毎日新聞社出版部、昭和10年
- 『恩田木工民親伝』信濃毎日新聞社、昭和10年
- 『現代語訳 日暮硯』
- 『吾等の恩師 竹内安治先生』
- 『片井京助直徹傳』
- 『赤帽技師 船大工常田壬太郎の生涯』創造社、昭和18年
- 『本邦民間蒸気製糸の元祖 本六工社創業略史』
- 『海防の先覚者 真田幸貫傳』
- 『史跡に指定された 松代藩文武学校』
- 『現代語訳 ひぐらしすゞり 付録真田幸弘、恩田木工傳』
- 『松代学校沿革史』(共著)
- 『松代が生んだ名女優 松井須磨子』(共著)
- 『吾妻銀右衛門翁傳』(共著)
- 『佐久間象山(人物叢書)』
以下は刊行不明
- 『少年郷土史稿』
- 『日本養糸業の功労者 大里忠一郎伝』
- 『渋谷竹栖伝』
脚注
[編集]- ^ a b c 山中さゆり 2006, p. 61.
- ^ a b c NAGANO検定実行委員会 2018, p. 131.
- ^ 山中さゆり 2006, pp. 59–62.
- ^ 山中さゆり 2006, pp. 69–70.
参考文献
[編集]- 山中さゆり「大平喜間多の著作とその活動」(PDF)『松代』第19号、松代文化施設等管理事務所、2006年3月1日、59-72頁、ISSN 13428837、2023年3月7日閲覧。
- NAGANO検定実行委員会 編『ながの市完全読本』NAGANO検定実行委員会、2018年6月1日。
関連項目
[編集]- 常田壬太郎 - 『奇人か変人か赤帽さん』『赤帽技師』で扱われた船大工。