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大岡忠恒 (旗本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大岡 忠恒
時代 江戸時代中期
生誕 貞享元年(1684年
死没 宝暦11年7月2日1761年8月2日
改名 忠易(初名)[1]→忠恒
別名 笘之丞、忠四郎(通称[1]
戒名 浄欣
墓所 神奈川県茅ヶ崎市堤の浄見寺
官位 従五位下、播磨守
幕府 江戸幕府書院番、旗奉行
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重家治
氏族 大岡氏
父母 父:大岡忠高、母:北条氏重の娘
養父:大岡忠種
兄弟 忠品忠顕忠相忠厚忠恒
島津久武
正室:鈴木重旧の娘
池田政胤養女(池田政永室→池田政能室)
娘(蜂屋定則室→進成羽室)、
娘(三枝守知室)、娘(木造俊永室)、
娘(池田政倫室)、忠居忠順、亀三郎、
恒定、捨之丞
養女:大岡忠利の娘(松平忠郷室)
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大岡 忠恒(おおおか ただつね)は、江戸時代中期の旗本。大岡忠行家5代当主。旗奉行などを務める。孫に大岡忠慎大岡越前守忠相の実弟である。

1700石を知行する旗本の大岡美濃守忠高の六男として生まれる。一族の相模高座郡堤村を領する旗本・大岡忠種の養子となり、元禄10年(1697年)に養父が亡くなったためその遺跡を継ぐ。

宝永3年(1706年)に書院番に就任する。宝永6年(1709年)、東叡山からの還御の時、供奉の期日を間違えたため咎められそうになったが、5代将軍徳川綱吉四十九日であったのと、その法要に参列したため、咎めを免れる。

享保4年(1719年)、組頭、享保12年(1727年)、新番頭、寛延2年(1749年)、江戸城西の丸留守居を歴任し、同年、従五位下・播磨守に叙任された。宝暦9年(1759年)には旗奉行に就任するが、宝暦11年(1761年)に死去した。享年78。

脚注

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  1. ^ a b 『公卿類別譜』
先代
大岡忠種
大岡本家(忠行流)第5代当主
1697年 - 1761年
次代
大岡忠居