大岡忠恒 (旗本)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 貞享元年(1684年) |
死没 | 宝暦11年7月2日(1761年8月2日) |
改名 | 忠易(初名)[1]→忠恒 |
別名 | 笘之丞、忠四郎(通称)[1] |
戒名 | 浄欣 |
墓所 | 神奈川県茅ヶ崎市堤の浄見寺 |
官位 | 従五位下、播磨守 |
幕府 | 江戸幕府書院番、旗奉行 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗→家重→家治 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 |
父:大岡忠高、母:北条氏重の娘 養父:大岡忠種 |
兄弟 |
忠品、忠顕、忠相、忠厚、忠恒、 島津久武室 |
妻 | 正室:鈴木重旧の娘 |
子 |
池田政胤養女(池田政永室→池田政能室) 娘(蜂屋定則室→進成羽室)、 娘(三枝守知室)、娘(木造俊永室)、 娘(池田政倫室)、忠居、忠順、亀三郎、 恒定、捨之丞 養女:大岡忠利の娘(松平忠郷室) |
大岡 忠恒(おおおか ただつね)は、江戸時代中期の旗本。大岡忠行家5代当主。旗奉行などを務める。孫に大岡忠慎。大岡越前守忠相の実弟である。
1700石を知行する旗本の大岡美濃守忠高の六男として生まれる。一族の相模高座郡堤村を領する旗本・大岡忠種の養子となり、元禄10年(1697年)に養父が亡くなったためその遺跡を継ぐ。
宝永3年(1706年)に書院番に就任する。宝永6年(1709年)、東叡山からの還御の時、供奉の期日を間違えたため咎められそうになったが、5代将軍徳川綱吉の四十九日であったのと、その法要に参列したため、咎めを免れる。
享保4年(1719年)、組頭、享保12年(1727年)、新番頭、寛延2年(1749年)、江戸城西の丸留守居を歴任し、同年、従五位下・播磨守に叙任された。宝暦9年(1759年)には旗奉行に就任するが、宝暦11年(1761年)に死去した。享年78。
脚注
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