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大岡忠高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大岡忠高
時代 江戸時代中期
生誕 寛永10年(1633年
死没 元禄14年11月10日1701年12月9日
別名 隼人、弥右衛門(通称
官位 美濃守
幕府 江戸幕府 奈良奉行小普請
主君 徳川家光徳川家綱徳川綱吉
氏族 大岡氏
父母 大岡忠章神尾元勝の娘
兄弟 忠高忠久忠道忠豊
正室:北条氏重の娘
忠品、某、忠顕忠相忠厚忠恒
娘(島津久武室)
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大岡 忠高(おおおか ただたか)は、江戸時代中期の旗本大岡忠章嫡男大岡忠相の実父。大岡忠吉家3代当主。奈良奉行などを務めた。

経歴

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2000石を知行する旗本大岡忠章の嫡男として生まれた。大岡忠高は1700石を知行した旗本で、貞享2年(1685年)8月13日、奈良奉行に就任した。翌貞享3年(1686年)、四男の大岡忠相を一族の1920石を知行する旗本・大岡忠真の養子とした。

元禄6年(1693年)、嫡男の大岡忠品が5代将軍徳川綱吉の逆鱗に触れ、伊豆八丈島へと流罪にされたため家禄が格下げとなる。この際、奈良奉行を辞し、小普請入りをした。

元禄9年(1696年)6月23日、相馬中村藩第5代藩主・相馬昌胤出羽久保田藩第3代藩主・佐竹義処の次男・叙胤を娘・於品の婿養子として迎え入れたいとする旨を、忠高が佐竹家縁者であったことから相馬昌胤の要請により、忠高が佐竹義処へと伝えた。

元禄14年(1701年)11月10日、病死した。享年68。死因は卒中。家督は復帰した忠品が継いだ。

大岡忠相の父ということで、忠相を主人公とした小説や映像作品中で忠相と一緒に江戸で暮らしている姿が登場することがあるが、実際に忠相が江戸南町奉行となったのは、忠高死去の16年後のことであり、あくまでフィクションである。

登場する作品(テレビドラマ)

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関連項目

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先代
大岡忠章
忠吉流大岡家
第3代
次代
大岡忠品