大伴峰麻呂
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 岑万里 |
官位 | 正六位上・兵部少丞 |
主君 | 桓武天皇 |
氏族 | 大伴宿禰 |
大伴 峰麻呂(おおとも の みねまろ)は、平安時代初期の官人。名は岑万里とも記される。姓は宿禰。官位は正六位上・兵部少丞。
経歴
[編集]延暦18年(799年)4月に遣新羅使に任ぜられるが(この時の位階は正六位上)[1]、新羅に渡ることなく5月には使節派遣は中止された[2]。
その後、延暦23年(804年)7月に第18次遣唐使一行が4船に分乗して日本から唐に向けて出帆するが、この内2船(第三・第四船)が風のために遭難して漂流し、行方知れずとなった[3]。また、遭難時の風の状態から新羅の海岸へ漂着していると想定された。そこで、同年9月に不明船の消息調査(使人を唐に派遣して調査することまで含む)と帰国支援を新羅に依頼するために、峰麻呂は再び遣新羅使に任ぜられて、今回は新羅へ渡航している(この時の官位は正六位上・兵部少丞)[4]。
その後、第三船は庇良島(平戸島)から遠値嘉島(五島列島の西寄りの島々)へ向かう最中に南風を受けて遭難・座礁し、遣唐判官・三棟今嗣らは船を捨てて大宰府まで戻ったことがわかったが[5]、第四船は行方不明のままであった。