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大セルジューク朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大セルジューク朝
セルジューク帝国
آل سلجوق (ペルシア語)
1038年 - 1157年1194年
大セルジューク朝の国旗
(13世紀初頭にルーム・セルジューク朝アナトリア半島ベイリクに採用された双頭の鷲
大セルジューク朝の位置
大セルジューク朝の最大版図(1092年)
公用語 ペルシア語
アラビア語
オグズ・テュルク語
宗教 イスラム教スンナ派ハナフィー学派
首都 ニーシャープール
(1038年 - 1043年)

シャフレ・レイ
(1043年 - 1051年)

エスファハーン
(1051年 - 1118年)

メルブ(東の首都)
(1118年 - 1153年)

ハマダーン(西の首都)
(1118年 - 1194年)
スルターン
1038年 - 1063年 トゥグリル・ベグ
1118年 - 1157年アフマド・サンジャル
宰相ワズィール
1064年 - 1092年ニザームルムルク
面積
1080年3,900,000km²
変遷
建国 1038年
ダンダーナカーンの戦い1040年5月25日
バグダード入城1055年
マラズギルトの戦い
セルジューク・ビザンツ戦争
1071年8月26日
第一回十字軍1096年 - 1099年
カトワーンの戦い1141年
アフマド・サンジャル死去1157年5月8日
現在イランの旗 イラン
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
アフガニスタンの旗 アフガニスタン
カザフスタンの旗 カザフスタン
タジキスタンの旗 タジキスタン
キルギスの旗 キルギス
中華人民共和国の旗 中国
トルコの旗 トルコ
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
アルメニアの旗 アルメニア
ジョージア (国)の旗 ジョージア
ロシアの旗 ロシア
イラクの旗 イラク
シリアの旗 シリア
レバノンの旗 レバノン
ヨルダンの旗 ヨルダン
イスラエルの旗 イスラエル
パレスチナ国の旗 パレスチナ
 エジプト
クウェートの旗 クウェート
アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦
イエメンの旗 イエメン
先代次代
オグズ オグズ
ガズナ朝 ガズナ朝
ブワイフ朝 ブワイフ朝
ビザンツ帝国 ビザンツ帝国
ファーティマ朝 ファーティマ朝
カラハン朝 カラハン朝
ルーム・セルジューク朝 ルーム・セルジューク朝
イラク・セルジューク朝 イラク・セルジューク朝
シリア・セルジューク朝 シリア・セルジューク朝
ケルマーン・セルジューク朝 ケルマーン・セルジューク朝
ホラズム・シャー朝 ホラズム・シャー朝
ザンギー朝 ザンギー朝
ブーリー朝 ブーリー朝
イルデニズ朝 イルデニズ朝
ダニシュメンド朝 ダニシュメンド朝
アルトゥク朝 アルトゥク朝
ナブハーニ朝 ナブハーニ朝
サルグル朝 サルグル朝
ゴール朝 ゴール朝
アイユーブ朝 アイユーブ朝
シャッダード朝 シャッダード朝
ベイリク ベイリク

大セルジューク朝Seljuk Empireペルシア語: آل سلجوق‎)またはGreat Seljuq Empire[1][注 1])は、オグズキニク英語版部族から始まる中世盛期トルコ系ペルシャ人英語版[4]スンナ派帝国である[5]。最大で大セルジューク朝は東は西アナトリア半島レバントからヒンドゥークシュ山脈に至り南は中央アジアからペルシア湾に至る広大な地域を支配した。

大セルジューク朝は1037年にトゥグリル・ベグ(990年 - 1063年)と兄のチャグリー・ベグ(989年 - 1060年)により建国された。アラル海に近い本拠地からセルジューク族は最初ホラーサーンに拡大し、結局バグダードを確保し東アナトリア半島を征服する前にペルシャに拡大した。ここでセルジューク族は1071年のマラズギルトの戦いに勝ち、東ローマ帝国からアナトリア半島の殆どを征服し、第1回十字軍(1095年 - 1099年)の原因の一つになった。1150年から1250年に大セルジューク朝は衰退し、1260年頃にモンゴル族に侵攻された。モンゴル族はアナトリア半島を首長国に分割した。結局その1つのオスマン帝国が残りを征服することになる。

セルジューク英語版は自分の名前を大セルジューク朝とセルジューク朝双方に与えた。セルジューク族は東のイスラム世界の分裂した政治情勢を統一し、第1回十字軍と第2回十字軍で主要な役割を演じた。文化[6]と言語[7]で高度にペルシャ化して英語版[8]、アナトリア半島にペルシャ文化を輸出さえして[9][10]トルコ系ペルシャ人の伝統英語版の発展にも重要な役割を演じた[11]。近隣の諸国の侵攻をかわす戦略的軍事目的で、大セルジューク朝の周辺部の西北地区のトルコ族の移住は、この地域の発展的なトルコ化英語版に導いた[12]

建国者

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セルジューク族の最初の先祖は、950年にイスラム教に改宗したジャンド近くのホラズムに移住したハザール軍に仕えたと一般に言われるベグセルジューク英語版)であった[13]

拡大

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セルジューク族はカラハン朝に対抗してペルシア人サーマーン朝のシャーと連合した。しかしガズナ朝が興隆するとマー・ワラー・アンナフル(992年-999年)のカラハニドに投降した。セルジューク族は自身の独立の基礎を築く前にこの権力構造に関わることになった。

トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグ

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大セルジューク朝をガズナ朝からもぎ取ったトゥグリル・ベグは、セルジュークの孫であり、チャグリー・ベグの弟であった。最初のうちはセルジューク族はマフムードに撃退され、ホラズムに撤退したが、トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグは、メルブニーシャープール奪取に導いた(1037年)[14]。後にホラサン英語版バルフを通じて後継者と繰り返し襲撃し領土を交換し、1037年にガズニーを略奪さえした[15]。1040年にダンダーナカーンの戦いでセルジューク族へと西の領土の大半を放棄させながら、決定的にマスード1世英語版を破った。1048年から1049年に、トゥグリル・ベグの同母異父の兄弟イブラヒム・イナル英語版が指揮するセルジューク・トルコは、イベリア州英語版の東ローマ帝国の前線地区で最初の侵入を行い、1048年9月10日にカペトロンの戦い英語版で5万人の東ローマ帝国・グルジア連合軍と衝突した。セルジューク族の興隆で残された荒廃は、非常に酷いもので、東ローマ帝国の流力者エウスタティオス・ボイラスは、1051年から1052年にかけてこの土地を「蛇や蠍、野生動物が生息する不潔で手の施しようのない場所」と表現した。アラブの編年史家イブン・アスィールは、イブラヒムは捕虜10万人とらくだ1万頭の背に載せた莫大な略奪品を返却したと報告している[16]。1055年、トゥグリル・ベグはアッバース朝から委託を受けてシーア派ブワイフ朝からバグダードを奪取した。

アルプ・アルスラーン

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チャグリー・ベグの息子のアルプ・アルスラーンは、アナトリア半島のほぼ全域を併合するアルメニアとグルジアを1064年に加え東ローマ帝国に1068年に侵攻することで明確にトゥグリルの領土を拡大させた[17]。1071年のマラズギルトの戦いでのアルスラーンの決定的な勝利は、事実上トルコのアナトリア半島侵攻に対して東ローマ帝国の抵抗を中立化させた[18]。グルジアはイベリア州英語版を防衛することでアルプ・アルスラーンの侵攻から奪還できたが、アナトリア半島から東ローマ帝国が撤退することでグルジアがセルジューク族と更に直接接触することになった。1073年、ガンジャやドヴィン、ドミニシのセルジュークアミールは、成功裏にカルスの要塞を奪取したジョージ2世英語版との戦いでグルジアに侵攻し敗れた英語版[19]。セルジュークアミールアフマドによる報復攻撃は、クヴェリスツィケでグルジアを破った[20]

忠誠を誓うアタベクとしてアルプ・アルスラーンは嘗ての東ローマ帝国のアナトリア半島からの土地を分割する権限をトルコ人の将軍に与えた。2年以内にトルコ人は数多のベグリク(現在のトルコのベイリク)の下でエーゲ海まで支配を伸ばした(東北アナトリア半島のサルトゥーク朝英語版、東アナトリア半島のシャーアルメンス英語版メンギュジェク朝英語版、東南アナトリア半島のアルトゥク朝、中央アナトリア半島のダニシュメンド朝、西アナトリア半島の(後に中央アナトリア半島に移動する)ルーム・セルジューク朝スライマーンのベグリク)、イズミルスミルナ)のベイリク)。

マリク・シャー

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アルプ・アルスラーンの後継者マリク・シャーと2人のペルシャ人ワズィール[21]ニザームルムルクとタージルムルクの下でセルジューク国はアラブ侵攻以前の嘗てのイラン国境に向けて様々な方面に拡張し、その為に間もなく東は中国と西は東ローマ帝国と国境を接した。マリク・シャーは首都をシャフレ・レイからエスファハーンに遷し、大セルジューク朝が絶頂期を迎えたのは、この時代であった[22]。イクタ軍事組織とバグダードのアルニザミッヤ大学英語版がニザームルムルクにより創立され、マリク・シャーの時代は、「大セルジューク朝」の黄金時代と考えられた。アッバース朝カリフは1087年に「東西のスルタン」と名付けた。しかしハサン・サッバーフ暗殺教団ハシュシャシン)は、この時代に一団となり始め、その指導の下で多くの指導者を暗殺し、多くの出典によると、この犠牲者にニザームルムルクがいた。

1076年、マリク・シャーはグルジアに押し寄せ、多くの入植地を破滅に追い込んだ。1079年から1080年にかけてグルジアは毎年の朝貢という相当な犠牲を払って高価な平和を耐え忍ばせるマリク・シャーに服従するように圧力を受けた。

統治

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セルジューク族の勢いは、確かにマリク・シャーの下で絶頂期であり、カラハン朝ガズナ朝は共にセルジューク族の専制君主としての地位を認めなければならなかった[23]。セルジューク族の領土がイランイラクの古代サーサーン朝の領土を超えて形成され、中央アジアや現代のアフガニスタンの領域同様にアナトリア半島シリア)を含んだ[23]。セルジューク族の支配は、トルコやモンゴルの遊牧民に共通の部族組織を手本にし、「家族連合」や「アパナージュ国」に似ていた[23]。この組織の下で最高位の家族の指導者が独立したアパナージュとして領土の一部を家族に割り当てた[23]

分割

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マリク・シャーが1092年に死去すると、大セルジューク朝は兄弟と4人の息子が大セルジューク朝の配分を巡って不和になり分裂した。マリク・シャーの地位はアナトリア半島ではルーム・セルジューク朝を建国したクルチ・アルスラーン1世が、シリアでは兄弟のトゥトゥシュが継承した。ペルシャでは統治が3人の兄弟イラクバルキヤールクバグダードのムハンマド1世、ホラサン英語版アフマド・サンジャルから異議を申し立てられた息子のマフムード1世が継承した。トゥトゥシュが死ぬと、息子のリドワーンドゥカークがそれぞれアレッポダマスカスを相続し、同様に互いに争い、更に互いに反目し合いながらシリアを首長に分配した。

1118年、三男のアフマド・サンジャルが大セルジューク朝を掌握した。彼の甥でありムハンマド1世の息子にあたるマフムード2世はアフマドの王位の主張を承認せず、自らがスルタンであると宣言し、最終的に公式にアフマド・サンジャルに退位させられる1131年までバグダードに首都を構えた。

名目だけのセルジューク領は他に東北シリアと北メソポタミアアルトゥク朝があり、1098年までエルサレムを支配した。ダニシュメンド朝が東アナトリア半島と北シリアに建国し、ルーム・セルジューク朝と領土を争い、ケルボガモースルアタベクとして独立した。

第1回十字軍(1095年-1099年)

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第1回十字軍でセルジューク族の分裂国家は、一般に十字軍戦士に対して協調するよりも自国領を強化し隣国の支配を得ることの方に関心があった。セルジューク族は容易に1096年に到着する民衆十字軍を破ったが、エルサレムに行軍するニカイアイズニク)やコンヤカイセリアンティオキアアンタキヤ)のような重要な都市を奪取する続く王子十字軍の軍勢の前進は止められなかった。1099年、十字軍戦士は遂に聖なる国を奪取し、第一次ウトラメールを建国した。セルジューク族は既に十字軍戦士が獲得する直前に再奪取していたファーティマ朝パレスチナを奪われていた。

エデッサ伯国を略奪するとセルジュークの司令官イルガジ英語版は、十字軍戦士と講和した。1121年、義理の息子のサダカーやギャンジャのスルタンマリクが率いる部隊を含む恐らく25万から35万に上る部隊とグルジアに向けて北上し、グルジア王国に侵攻した[24][25]ダヴィド4世イルガジ英語版の膨大な軍と戦うモナスパ英語版衛兵5000人やキプチャク兵15000人、アラン兵300人、フランスの十字軍戦士100人などグルジア戦士4万人を召集した。ディドゴリの戦い英語版が1121年8月12日にグルジア王国軍と大セルジューク朝軍の間で行われた。その結果、セルジューク族は数日間グルジア騎兵隊を追跡することで疲弊し、徹底的に打ち破られ戦場から敗走した。ディドゴリの戦いはイルガジ軍の圧力を受けていた十字軍諸国を助けた。ラテン公国の主要な敵が弱体化したことは、ボードゥアン2世王が統治するエルサレム王国にとって有益であった。

第2回十字軍(1147年-1149年)

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この間にウトラメールとの騒乱も断続的に行われ、第1回十字軍後に互いに領土を巡って張り合ったので益々独立したアタベクが頻繁に他のアタベクに対してウトラメールと連合することになる。モースルではザンギーがアタベクとしてケルボガの後継者になり、成功裏にシリアのアタベクの統合を開始した。1144年、エデッサ伯国が自分に対してアルトゥク朝と連合したので、ザンギーはエデッサ英語版を奪取した。この事件は第2回十字軍開始の契機となった。アレッポのアタベクとして後継したザンギーの息子の一人ヌールッディーンは、1147年に上陸した第2回十字軍と戦う地域で同盟関係を構築した。

衰退

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アフマド・サンジャルは東の西遼の遊牧民の侵攻同様にマー・ワラー・アンナフルカラハン朝アフガニスタンゴール朝、現在のキルギスカルルクによる暴動を封じ込めるために戦った。増大する西遼は、初めホジェンドでセルジューク族の従属国であった、その際西カラハン朝を粉砕することで続いた東カラハン朝を破った。カラハン朝はサンジャルが西遼に対して個人的に軍勢を率いることで応じたセルジューク族を援助のために領主に転属させた。しかしサンジャルの軍勢は、1141年9月9日のカトワーンの戦い耶律大石の軍勢に決定的に破られた。サンジャルは命からがら逃げられたとはいえ、妻を含む身近な親族の多くは、戦闘の余波で捕虜になった。サンジャルが東からの侵犯する脅威を与えることに失敗した結果、大セルジューク朝はシルダリヤ川までの東の諸県全てを失い、西カラハン朝の家臣は、西遼に強奪された[26]

ホラズム朝とアイユーブ朝による征服

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1153年、オグズは謀反を起こしサンジャルを捕えた。3年後に脱走できたが、1年後に死亡した。ザンギー朝アルトゥク朝のようなアタベクは、名目上に限って言えばセルジューク朝のスルタンの支配を受けたが、一般的には独立してシリアを支配した。アフマド・サンジャルが1157年に死ぬと、大セルジューク朝は分裂し、事実上アタベクを独立させた。

  1. ホラーサーントランスオクシアナホラーサーン・セルジューク朝。首都:メルブ
  2. ケルマーン・セルジューク朝
  3. ルーム・セルジューク朝(またはトルコのセルジューク族)。首都:イズニクニカイア)、後にコンヤ
  4. イランサルグル朝のアタベク
  5. イラクとアゼルバイジャンイルデニズ朝のアタベク(アゼルバイジャンのアタベク[27][28]。首都:ナヒチェヴァン[29](1136年-1175年)、ハマダーン(1176年-1186年)、タブリーズ[30](1187年-1225年)
  6. シリアのブーリー朝のアタベク。首都:ダマスカス
  7. ジャズィーラ(北メソポタミア)のザンギーのアタベク。首都:モースル
  8. テュルクマーン・ベグリク:小アジアのダニシュメンド朝アルトゥク朝サルトゥーク朝英語版メンギュジェク家英語版

第2回十字軍の後でヌールッディーンの将軍シール・クーフは、ファーティマ朝エジプトで名声を確立し、サラーフッディーンにより継承された。結局はサラーフッディーンはヌールッディーンに反旗を翻し、その死に際してサラーフッディーンはその未亡人と結婚し、シリアの殆どを手に入れ、アイユーブ朝を創設した。

別の戦線では、グルジアが地域の強国になり始め、大セルジューク朝を侵食しながら国境を拡大した。同じことはアナトリア半島でレオ2世英語版が統治するキリキア・アルメニア王国の復興期にも起きた。アッバース朝カリフナースィルもカリフの権威を再び主張し始め、ホラズムシャーアラーウッディーン・テキシュと連合した。

短期間トゥグリル3世はアナトリア半島を除く全セルジューク朝のスルタンであった。しかし1194年にトゥグリルはホラズム朝シャーアラーウッディーン・テキシュに破れ大セルジューク朝は遂に崩壊した。嘗ての大セルジューク朝の内アナトリア半島ルーム・セルジューク朝だけが残った。

王朝が13世紀半ばに衰退したので、モンゴル帝国が1260年代にアナトリア半島英語版に侵攻し、ベイリクと呼ばれる小さな首長国に分割した。結局この内の一つのオスマン帝国が強大になり、残りを征服した。

遺産

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セルジューク族は奴隷や傭兵としてムスリム宮廷に勤めることで教育を受けた。王朝は信仰復活や精力、アラブ人やペルシャ人に従来統治されていたイスラム文明への再結合をもたらした。

セルジューク族は大学を創立し芸術や文学の保護者でもあった。その影響力はウマル・ハイヤームのようなペルシア人天文学者やペルシア人哲学者ガザーリーにより特徴付けられている。セルジューク族の下でアラビア語文化の中心がバグダードからカイロに移る一方で新ペルシャ語が歴史を記録する言語になった[31]

スルタン一覧

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# ラカブ 即位名 統治期間 結婚 相続権
1 ラクン・アドゥンヤ・ワ・アッディン
رکن الدنیا والدین,
トゥグリル・ベグ 1037年–1063年 1) アルトゥン・ジャン・ハトゥン英語版
(2) アカ・ハトゥン英語版
(3) フラナ・ハトゥン
アブー・カリジャル英語版の娘)
(4) セッイダー・ハトゥン英語版
カーイムアッバース朝カリフ)の娘)
(5) フラナ・ハトゥン
チャグリー・ベグの未亡人)
ミーカーイールの息子
(セルジュークの孫)
2 ディヤ・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・アドゥド・アッダウラー
ضياء الدنيا و الدين عضد الدولة
アルプ・アルスラーン 1063年–1072年 1) アカ・ハトゥン英語版
トゥグリル・ベグの未亡人)
(2) サファリッヤ・ハトゥン英語版
ユスフ・カディール・ハーン英語版カラハン朝カガン)の娘)
(3) フラナ・ハトゥン
スンバト・ロルヒ英語版の娘)
(4) フラナ・ハトゥン
クルッチュ・ビン・ヤヌス・ビン・セルジューク英語版の娘)
チャグリー・ベグの息子
3 ムイッズ・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・ジャラル・アッダウラー
معز الدین جلال الدولہ
マリク・シャー 1072年–1092年 1) テルケン・ハトゥン英語版
ベリティギン英語版西カラハン朝英語版カガン)の娘)
(2) ズベイダ・ハトゥン英語版
ヤグティ・イブン・チャグリー英語版の娘)
(3) サファリッヤ・ハトゥン英語版
(イサ・ハーン(サマルカンドのスルタン)の娘)
(4) フラナ・ハトゥン
ロマノス4世ディオゲネス)の娘)
アルプ・アルスラーンの息子
4 ナシル・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
ناصر الدنیا والدین
マフムード1世英語版 1092年–1094年 マリク・シャーの息子
5 ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
رکن الدنیا والدین
バルキヤールク 1094年–1105年 マリク・シャーの息子
6 ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・ジャラル・アッダウラー
رکن الدنیا والدین جلال الدولہ
マリク・シャー2世 1105年 バルキヤールクの息子
7 ギヤト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
غیاث الدنیا والدین
ムハンマド・タパル 1105年–1118年 1) ニサンダル・ジハン・ハトゥン英語版
(2) ゴウハル・ハトゥン英語版
イスマーイル・ビン・ヤクティ英語版の娘)
(3) フラナ・ハトゥン
アクスングル・ベグ英語版の娘)
マリク・シャーの息子
8 ムギト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン・ジャラル・アッダウラー
مُغيث الدنيا و الدين جلال الدولة
マフムード2世 1118年–1131年 1) マーイ・ムルク・ハトゥン英語版(1130年死去)
アフマド・サンジャルの娘)
(2) アミル・シティ・ハトゥン英語版
アフマド・サンジャルの娘)
(3) アタ・ハトゥン英語版
アリー・ビン・ファラマルズ英語版の娘)
ムハンマド・タパルの息子
9 ムイッズ・アドゥンヤ・ワ・アッディン・アドゥド・アッダウラー
مُعز الدنيا و الدين جلال الدولة
アフマド・サンジャル 1118年–1153年 1) トゥルカン・ハトゥン英語版
ムハンマド・アルスラーン・ハーン英語版西カラハン朝英語版カガン)の娘)
(2) ルスダン英語版
デメトリウス1世英語版の娘)
(3) ゴウハル・ハトゥン英語版
イスマーイル・ビン・ヤクティ英語版の娘でムハンマド・タパルの未亡人)
(4) フラナ・ハトゥン
(アルスラーン・ハーン(西遼捕虜)の娘)
マリク・シャーの息子
10 ゴリアト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
غیاث الدنیا والدین
ダウード英語版 1131年–1132年 ゴウハル・ハトゥン英語版
マスウードの娘)
マフムード2世の息子
11 ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
رکن الدنیا والدین
トゥグリル2世 1132年–1135年 1) ムミネ・ハトゥン英語版
アルスランシャー英語版の母)
(2) ズベイダ・ハトゥン英語版
バルキヤールクの娘)
ムハンマド・タパルの息子
12 ギヤト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
غیاث الدنیا والدین
マスウード英語版 1135年–1152年 1) ゴウサル・ナサブ・ハトゥン英語版
アフマド・サンジャルの娘)
(2) ズベイダ・ハトゥン英語版
バルキヤールクの娘で, トゥグリル2世の未亡人)
(3) ムスタズヒリッヤ・ハトゥン英語版
カーヴルト・ベグの娘)
(4) スフラ・ハトゥン英語版
ドゥバイス英語版の娘)
(5) アラブ・ハトゥン英語版
ムクタフィーの娘)
(6) ウンミハ・ハトゥン英語版
アミド・ウッデウラ・ビン・ジュハイル英語版の娘)
(7) アブハジッヤ・ハトゥン英語版
ダヴィド4世の娘)
(8) スルタン・ハトゥン英語版
マリクシャー3世英語版の母)
ムハンマド・タパルの息子
13 ムイン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
مُعين الدنيا و الدين
マリクシャー3世英語版 1152年–1153年 マフムード2世の息子
14 ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
رکن الدنیا والدین
ムハンマド英語版 1153年–1159年 1) マード・ラフィ・ハトゥン英語版
キルマンシャー英語版の娘)
(2) ゴウハル・ハトゥン英語版
マスウード英語版の娘でダウード英語版の未亡人)
(3) ケルマン・ハトゥン英語版
ムクタフィーの娘)
(4) キルマニッヤ・ハトゥン英語版
トゥグリルシャー英語版ケルマーンの支配者)の娘)
マフムード2世の息子
15 ギヤト・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
غیاث الدنیا والدین
スレイマンシャー英語版 1159年–1160年 1) ホラズミ・ハトゥン英語版
ムハンマド・ホラズム・シャー英語版の娘)
(2) アブハジッヤ・ハトゥン英語版
ダヴィド4世の娘でマスード英語版の未亡人)
ムハンマド・タパルの息子
16 ムイッズ・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
معز الدنیا والدین
アルスランシャー英語版 1160年–1176年 1) ケルマン・ハトゥン英語版
ムクタフィーの娘でムハンマド英語版の未亡人)
(2) シッティ・ファティマ・ハトゥン英語版
アラ・アッダウラー英語版の娘)
(3) キルマニッヤ・ハトゥン英語版
トゥグリルシャー英語版ケルマーンの支配者)の娘で, ムハンマド英語版の未亡人)
(4) フラナ・ハトゥン
イッズ・アッディン・ハサン・キプチャク英語版の姉妹)
トゥグリル2世の息子
17 ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
رکن الدنیا والدین
トゥグリル3世 1176年–1191年
第1回の統治
イナンジ・ハトゥン英語版
イナンチ・ソンクール英語版シャフレ・レイの支配者)の娘でトゥグリル3世の未亡人)
アルスランシャーの息子
18 ムザッファル・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
مظفر الدنیا والدین
キジル・アルスラーン英語版 1191年 イナンジ・ハトゥン英語版
イナンチ・ソンクール英語版シャフレ・レイの支配者)の娘でムハンマド・イブン・イルデニズ英語版の未亡人)
イルデニズの息子
(アルスランシャーの義理の兄弟)
ラクン・アッドゥンヤ・ワ・アッディン
رکن الدنیا والدین
トゥグリル3世 1192年–1194年
第2回の統治
アルスランシャーの息子

写真

[編集]

関連項目

[編集]

注釈

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参照

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引用

[編集]
  1. ^
    • A. C. S. Peacock, Great Seljuk Empire, (Edinburgh University Press, 2015), 1–378
    • Christian Lange; Songül Mecit, eds., Seljuqs: Politics, Society and Culture (Edinburgh University Press, 2012), 1–328
    • P.M. Holt; Ann K.S. Lambton, Bernard Lewis, The Cambridge History of Islam (Volume IA): The Central Islamic Lands from Pre-Islamic Times to the First World War, (Cambridge University Press, 1977), 151, 231–234.
  2. ^ Mecit 2014, p. 128.
  3. ^ Peacock & Yıldız 2013, p. 6.
  4. ^ * "Aḥmad of Niǧde's al-Walad al-Shafīq and the Seljuk Past", A. C. S. Peacock, Anatolian Studies, Vol. 54, (2004), 97; "With the growth of Seljuk power in Rum, a more highly developed Muslim cultural life, based on the Persianate culture of the Seljuk court, was able to take root in Anatolia."
    • Meisami, Julie Scott, Persian Historiography to the End of the Twelfth Century, (Edinburgh University Press, 1999), 143; "Nizam al-Mulk also attempted to organise the Saljuq administration according to the Persianate Ghaznavid model k..."
    • Encyclopaedia Iranica, "Šahrbānu", Online Edition: "here one might bear in mind that non-Persian dynasties such as the Ghaznavids, Saljuqs and Ilkhanids were rapidly to adopt the Persian language and have their origins traced back to the ancient kings of Persia rather than to Turkish heroes or Muslim saints ..."
    • Josef W. Meri, Medieval Islamic Civilization: An Encyclopedia, Routledge, 2005, p. 399
    • Michael Mandelbaum, Central Asia and the World, Council on Foreign Relations (May 1994), p. 79
    • Jonathan Dewald, Europe 1450 to 1789: Encyclopedia of the Early Modern World, Charles Scribner's Sons, 2004, p. 24: "Turcoman armies coming from the East had driven the Byzantines out of much of Asia Minor and established the Persianized sultanate of the Seljuks."
    • Grousset, Rene, The Empire of the Steppes, (Rutgers University Press, 1991), 161, 164; "renewed the Balls of ur dad
    attempt to found a great Turko-Persian empire in eastern Iran." "It is to be noted that the Seljuks, those Turkomans who became sultans of Persia, did not Turkify Persia-no doubt because they did not wish to do so. On the contrary, it was they who voluntarily became Persians and who, in the manner of the great old Sassanid kings, strove to protect the Iranian populations from the plundering of Ghuzz bands and save Iranian culture from the Turkoman menace."
    • Wendy M. K. Shaw, Possessors and possessed: museums, archaeology, and the visualization of history in the late Ottoman Empire. University of California Press, 2003, ISBN 0-520-23335-2, 978-0-520-23335-5; p. 5.
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    • Dani, A. H., Masson, V. M. (Eds), Asimova, M. S. (Eds), Litvinsky, B. A. (Eds), Boaworth, C. E. (Eds). (1999). History of Civilizations of Central Asia. Motilal Banarsidass Publishers (Pvt. Ltd).
  6. ^ * C.E. Bosworth, "Turkmen Expansion towards the west" in UNESCO History of Humanity, Volume IV, titled "From the Seventh to the Sixteenth Century", UNESCO Publishing / Routledge, p. 391: "While the Arabic language retained its primacy in such spheres as law, theology and science, the culture of the Seljuk court and secular literature within the sultanate became largely Persianized; this is seen in the early adoption of Persian epic names by the Seljuk rulers (Qubād, Kay Khusraw and so on) and in the use of Persian as a literary language (Turkmen must have been essentially a vehicle for everyday speech at this time). The process of Persianization accelerated in the thirteenth century with the presence in Konya of two of the most distinguished refugees fleeing before the Mongols, Bahā' al-Dīn Walad and his son Mawlānā Jalāl al-Dīn Rūmī, whose Mathnawī, composed in Konya, constitutes one of the crowning glories of classical Persian literature."
    • Mehmed Fuad Köprülü, "Early Mystics in Turkish Literature", Translated by Gary Leiser and Robert Dankoff, Routledge, 2006, p. 149: "If we wish to sketch, in broad outline, the civilization created by the Seljuks of Anatolia, we must recognize that the local—i.e., non-Muslim, element was fairly insignificant compared to the Turkish and Arab-Persian elements, and that the Persian element was paramount. The Seljuk rulers, to be sure, who were in contact with not only Muslim Persian civilization, but also with the Arab civilizations in al-jazlra and Syria—indeed, with all Muslim peoples as far as India—also had connections with {various} Byzantine courts. Some of these rulers, like the great 'Ala' al-Dln Kai-Qubad I himself, who married Byzantine princesses and thus strengthened relations with their neighbors to the west, lived for many years in Byzantium and became very familiar with the customs and ceremonial at the Byzantine court. Still, this close contact with the ancient Greco-Roman and Christian traditions only resulted in their adoption of a policy of tolerance toward art, aesthetic life, painting, music, independent thought—in short, toward those things that were frowned upon by the narrow and piously ascetic views {of their subjects}. The contact of the common people with the Greeks and Armenians had basically the same result. [Before coming to Anatolia,] the Turkmens had been in contact with many nations and had long shown their ability to synthesize the artistic elements that thev had adopted from these nations. When they settled in Anatolia, they encountered peoples with whom they had not yet been in contact and immediately established relations with them as well. Ala al-Din Kai-Qubad I established ties with the Genoese and, especially, the Venetians at the ports of Sinop and Antalya, which belonged to him, and granted them commercial and legal concessions. Meanwhile, the Mongol invasion, which caused a great number of scholars and artisans to flee from Turkmenistan, Iran, and Khwarazm and settle within the Empire of the Seljuks of Anatolia, resulted in a reinforcing of Persian influence on the Anatolian Turks. Indeed, despite all claims to the contrary, there is no question that Persian influence was paramount among the Seljuks of Anatolia. This is clearly revealed by the fact that the sultans who ascended the throne after Ghiyath al-Din Kai-Khusraw I assumed titles taken from ancient Persian mythology, like Kai-Khusraw, Kai-Ka us, and Kai-Qubad; and that. Ala' al-Din Kai-Qubad I had some passages from the Shahname inscribed on the walls of Konya and Sivas. When we take into consideration domestic life in the Konya courts and the sincerity of the favor and attachment of the rulers to Persian poets and Persian literature, then this fact [i.e., the importance of Persian influence] is undeniable. With regard to the private lives of the rulers, their amusements, and palace ceremonial, the most definite influence was also that of Iran, mixed with the early Turkish traditions, and not that of Byzantium."
    • Stephen P. Blake, Shahjahanabad: The Sovereign City in Mughal India, 1639–1739. Cambridge University Press, 1991. pg 123: "For the Seljuks and Il-Khanids in Iran it was the rulers rather than the conquered who were "Persianized and Islamicized"
  7. ^ * Encyclopaedia Iranica, "Šahrbānu", Online Edition: "here one might bear in mind that non-Persian dynasties such as the Ghaznavids, Saljuqs and Ilkhanids were rapidly to adopt the Persian language and have their origins traced back to the ancient kings of Persia rather than to Turkish heroes or Muslim saints ..."
    • O.Özgündenli, "Persian Manuscripts in Ottoman and Modern Turkish Libraries Archived 2012-01-22 at the Wayback Machine.", Encyclopaedia Iranica, Online Edition
    • Encyclopædia Britannica, "Seljuq", Online Edition: "Because the Turkish Seljuqs had no Islamic tradition or strong literary heritage of their own, they adopted the cultural language of their Persian instructors in Islam. Literary Persian thus spread to the whole of Iran, and the Arabic language disappeared in that country except in works of religious scholarship ..."
    • M. Ravandi, "The Seljuq court at Konya and the Persianisation of Anatolian Cities", in Mesogeios (Mediterranean Studies), vol. 25-6 (2005), pp. 157–69
    • F. Daftary, "Sectarian and National Movements in Iran, Khorasan, and Trasoxania during Umayyad and Early Abbasid Times", in History of Civilizations of Central Asia, Vol 4, pt. 1; edited by M.S. Asimov and C.E. Bosworth; UNESCO Publishing, Institute of Ismaili Studies: "Not only did the inhabitants of Khurasan not succumb to the language of the nomadic invaders, but they imposed their own tongue on them. The region could even assimilate the Turkic Ghaznavids and Seljuks (eleventh and twelfth centuries), the Timurids (fourteenth–fifteenth centuries), and the Qajars (nineteenth–twentieth centuries) ..."
  8. ^ * Encyclopaedia Iranica, "Šahrbānu", Online Edition: "here one might bear in mind that non-Persian dynasties such as the Ghaznavids, Saljuqs and Ilkhanids were rapidly to adopt the Persian language and have their origins traced back to the ancient kings of Persia rather than to Turkish heroes or Muslim saints ..."
    • Josef W. Meri, "Medieval Islamic Civilization: An Encyclopedia", Routledge, 2005, p. 399
    • Michael Mandelbaum, "Central Asia and the World", Council on Foreign Relations (May 1994), p. 79
    • Jonathan Dewald, "Europe 1450 to 1789: Encyclopedia of the Early Modern World", Charles Scribner's Sons, 2004, p. 24: "Turcoman armies coming from the East had driven the Byzantines out of much of Asia Minor and established the Persianized sultanate of the Seljuks."
  9. ^ Grousset, Rene, The Empire of the Steppes, (Rutgers University Press, 1991), 574.
  10. ^ Bingham, Woodbridge, Hilary Conroy and Frank William Iklé, History of Asia, Vol.1, (Allyn and Bacon, 1964), 98.
  11. ^ "The Turko-Persian tradition features Persian culture patronized by Turkic rulers." See Daniel Pipes: "The Event of Our Era: Former Soviet Muslim Republics Change the Middle East" in Michael Mandelbaum, "Central Asia and the World: Kazakhstan, Uzbekistan, Tajikistan, Kyrgyzstan, Turkemenistan and the World", Council on Foreign Relations, p. 79. Exact statement: "In Short, the Turko-Persian tradition featured Persian culture patronized by Turcophone rulers."
  12. ^ *An Introduction to the History of the Turkic Peoples (Peter B. Golden. Otto Harrasowitz, 1992). pg 386: "Turkic penetration probably began in the Hunnic era and its aftermath. Steady pressure from Turkic nomads was typical of the Khazar era, although there are no unambiguous references to permanent settlements. These most certainly occurred with the arrival of the Oguz in the 11th century. The Turkicization of much of Azarbayjan, according to Soviet scholars, was completed largely during the Ilxanid period if not by late Seljuk times. Sumer, placing a slightly different emphasis on the data (more correct in my view), posts three periods which Turkicization took place: Seljuk, Mongol and Post-Mongol (Qara Qoyunlu, Aq Qoyunlu and Safavid). In the first two, Oguz Turkic tribes advanced or were driven to the western frontiers (Anatolia) and Northern Azarbaijan (Arran, the Mugan steppe). In the last period, the Turkic elements in Iran (derived from Oguz, with lesser admixture of Uygur, Qipchaq, Qaluq and other Turks brought to Iran during the Chinggisid era, as well as Turkicized Mongols) were joined now by Anatolian Turks migrating back to Iran. This marked the final stage of Turkicization. Although there is some evidence for the presence of Qipchaqs among the Turkic tribes coming to this region, there is little doubt that the critical mass which brought about this linguistic shift was provided by the same Oguz-Turkmen tribes that had come to Anatolia. The Azeris of today are an overwhelmingly sedentary, detribalized people. Anthropologically, they are little distinguished from the Iranian neighbors."
    • John Perry: "We should distinguish two complementary ways in which the advent of the Turks affected the language map of Iran. First, since the Turkish-speaking rulers of most Iranian polities from the Ghaznavids and Seljuks onward were already Iranized and patronized Persian literature in their domains, the expansion of Turk-ruled empires served to expand the territorial domain of written Persian into the conquered areas, notably Anatolia and Central and South Asia. Secondly, the influx of massive Turkish-speaking populations (culminating with the rank and file of the Mongol armies) and their settlement in large areas of Iran (particularly in Azerbaijan and the northwest), progressively turkicized local speakers of Persian, Kurdish and other Iranian languages"
    (John Perry. "The Historical Role of Turkish in Relation to Persian of Iran". Iran & the Caucasus, Vol. 5, (2001), pp. 193–200.)
    • According to C.E. Bosworth:
    "The eastern Caucasus came under Saljuq control in the middle years of the 5th/11th century, and in c. 468/1075-56 Sultan Alp Arslān sent his slave commander ʿEmād-al-dīn Savtigin as governor of Azerbaijan and Arrān, displacing the last Shaddadids. From this period begins the increasing Turkicization of Arrān, under the Saljuqs and then under the line of Eldigüzid or Ildeñizid Atabegs, who had to defend eastern Transcaucasia against the attacks of the resurgent Georgian kings. The influx of Oghuz and other Türkmens was accentuated by the Mongol invasions. Bardaʿa had never revived fully after the Rūs sacking, and is little mentioned in the sources." (C.E. Bsowrth, Arran in Encyclopædia Iranica)
    • According to Fridrik Thordarson:
    "Iranian influence on Caucasian languages. There is general agreement that Iranian languages predominated in Azerbaijan from the 1st millennium b.c. until the advent of the Turks in a.d. the 11th century (see Menges, pp. 41–42; Camb. Hist. Iran IV, pp. 226–228, and VI, pp. 950–952). The process of Turkicization was essentially complete by the beginning of the 16th century, and today Iranian languages are spoken in only a few scattered settlements in the area."
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  29. ^ Encyclopaedia Iranica. K. A. Luther «Atabakan-e Adarbayjan»: Sources such as Ḥosaynī’s Aḵbār (p. 181 and passim) make it clear that members of the family always considered Naḵǰavān their home base.
  30. ^ Houtsma, M. T. E.J. Brill's First Encyclopaedia of Islam, 1913-1936, BRILL, 1987, ISBN 90-04-08265-4, p. 1053
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出典

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  • Peacock, A.C.S.; Yıldız, Sara Nur, eds (2013). The Seljuks of Anatolia: Court and Society in the Medieval Middle East. I.B.Tauris. ISBN 978-1848858879 
  • Mecit, Songül (2014). The Rum Seljuqs: Evolution of a Dynasty. Routledge. ISBN 978-1134508990 

参考文献

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外部リンク

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