カトワーンの戦い
カトワーンの戦い | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
西遼 |
セルジューク朝 西カラハン朝 | ||||||
指揮官 | |||||||
耶律大石 蕭斡里剌 蕭剌阿不 |
アフマド・サンジャル マフムード2世 | ||||||
戦力 | |||||||
20,000[1] - 300,000(イスラームの歴史家によって誇張されたと思われる数)[2] | 50,000[3] - 100,000[4] | ||||||
被害者数 | |||||||
不明 | 50,000[3] - 100,0000[4] |
カトワーンの戦い(カトワーンのたたかい)は、1141年9月9日に起きた、西遼とセルジューク朝・西カラハン朝連合軍の戦闘である。この戦いでセルジューク朝は大敗を喫し、この時からセルジューク朝の衰退が始まる[5]。
背景
[編集]916年より、中国北部には契丹人の国家である遼が存在していたが、1125年に女真族の国家である金によって滅ぼされた。皇族の耶律大石は遼の遺民の一部を率いて中央アジアに移動し、東カラハン朝の本拠地であるベラサグンを制圧した。
1137年に西遼の軍はホジェンド近郊で西カラハン朝を破り、西カラ・ハン朝の君主マフムード2世を臣従させる。敗れたマフムード2世は叔父にあたるセルジューク朝のスルターン・アフマド・サンジャルに助けを求めた[6][7]。1141年、要請に応えたサンジャルは自ら軍隊を指揮し、西カラハン朝の首都サマルカンドに入城した。セルジューク朝の臣従国であったホラズム・シャー朝の手引きによって西遼はセルジューク領に侵入し、セルジューク朝・西カラハン朝と対立していたカルルク族も西遼を頼った[8]。
戦闘
[編集]両軍の兵数は史料によって異なるが、西遼は20,000から300,000人、セルジューク軍は70,000から100,000人の兵士を率いていた。また、西遼軍には30,000から50,000人のカルルクの遊牧民も加わっていた[9]。
サマルカンド北のカトワーン草原で、西遼軍とセルジューク軍は交戦した。耶律大石は部隊を3つに分け、蕭斡里剌と耶律松山らが率いる右翼、蕭剌阿不と耶律術薛らが率いる左翼にそれぞれ2,500人の兵士を配置した[10]。西遼軍はセルジューク軍を包囲して攻撃をかけ、セルジューク軍の本隊はサマルカンドから12km離れたDarghamというワジへと追いやられる。退路を断たれたセルジューク軍は壊滅し、サンジャル自身ははかろうじて戦場からの脱出に成功するが、セルジューク軍の司令官らのほかに、サンジャルの后も捕虜となった。[11]。
影響
[編集]戦後、耶律大石はサマルカンドに90日間留まり、現地のイスラム教徒の貴族から臣従の誓いを受け、マフムード2世の兄弟イブラーヒームを新たな西カラハン朝の君主とした。また、ホラズム・シャー朝も西遼の従属国となる。1142年に西遼の将軍エルブズはホラズム地方に侵入し、ホラズム・シャー朝の君主アトスズは西遼に対して年30,000ディナールの貢納を支払うことに同意した[11][12]。
また、この戦闘の情報がシリアの十字軍を通してヨーロッパに誤りを含んだ形で伝えられ、キリスト教国の君主プレスター・ジョンの伝説を生むことになったとも言われる[7]。
脚注
[編集]- ^ Asimov, M. S., The Historical, Social and Economic setting, (Motilal Banarsidass, 1999), 238頁
- ^ "The Historical Prester John", Charles E. Nowell, Speculum, Vol. 28, No. 3 (Jul., 1953), 442頁
- ^ a b "Dailamīs in Central Iran: The Kākūyids of Jibāl and Yazd", C. E. Bosworth, Iran, Vol. 8, (1970), 90頁
- ^ a b Sykes, Percy, A History of Persia, Vol. 2, (Routledge and Kegan Paul, 1969), 50頁
- ^ Journal of Central Asia", Vol. 16, (Centre for the Study of the Civilizations of Central Asia, 1993), 19頁
- ^ Biran, Michal. (2005), 42頁
- ^ a b 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁
- ^ Biran, Michal. (2005), 41-43頁
- ^ Biran, Michal. (2005), 43-44頁
- ^ 『遼史』巻30,耶律大石
- ^ a b Biran, Michal. (2005), 44頁
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1968年3月)、332-333頁