スライマーン・イブン・クタルミシュ
スライマーン سُلَیمانشاہ بن قُتَلمِش Süleyman Şah | |
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ルーム・セルジューク朝初代スルターン | |
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在位 | 1077年 - 1086年6月4日 |
全名 | スライマーン・イブン・クタルムシュ |
出生 |
不明 |
死去 |
1086年6月4日 アンティオキア |
配偶者 | セルジューク・ハトゥン |
子女 | クルチ・アルスラン1世 |
家名 | セルジューク家 |
王朝 | ルーム・セルジューク朝 |
父親 | クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイール |
母親 | 不明 |
宗教 | イスラーム教スンナ派 |
スライマーン・イブン・クタルムシュ(ペルシア語: سلیمان بن قتلمش、Süleyman Şah、 ? - 1086年6月4日)は、ルーム・セルジューク朝の始祖(在位:1077年 - 1086年6月4日)。
生涯
[編集]セルジューク朝の始祖であるトゥグリル・ベグの父・ミーカーイールの兄弟であるアルスラーン・イスラーイール・イブン・セルジュークの息子クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイールが父である。1063年にトゥグリル・ベグが子孫を残さずに病死すると、後継者の地位を得るべくクタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイールは跡を継いだアルプ・アルスラーンと敵対するも殺害された。その際、スライマーンは連座で罪を問われなかったが、セルジューク家の王族とは認められなくなった。
アルプ・アルスラーンの跡を継いだマリク・シャーはアナトリア方面のトゥルクマーン統制のため、スライマーンを送り込んだ。スライマーンは1074年あるいは1075年に東ローマ帝国領であったニカエア(現在のイズニク)を占領した。その後は東方に進出してマリク・シャーと対立。1084年12月にはシリア北部のアンティオキアまで征服するなど、宗主のマリクを完全に無視した独立行動をとった。
だがシリアの征服はかえってマリクやその実弟でシリア・セルジューク朝を構成していたトゥトゥシュの怒りを招いた。1086年6月、アンティオキア東方にあるアレッポの支配権をめぐってスライマーンはトゥトゥシュと戦い、敗死した。
死後、息子のクルチ・アルスラーン1世はマリクに捕らえられてルーム・セルジューク朝は一旦断絶し、6年後のマリクの死去まで復権を待つことになった。
参考文献
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