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増田光彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
増田 光彦
Mitsuhiko MASUDA
基本情報
名前 増田 光彦
生年月日 (1937-12-01) 1937年12月1日(87歳)
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県
経歴
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増田 光彦(ますだ みつひこ、1937年12月1日 - )は熊本県出身のプロゴルファー

来歴

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15歳からゴルフを始め、24歳でプロとなる[1]

1971年日本プロでは最終日・最終組で島田幸作尾崎将司と一緒に回り[2]、最後の9ホールに入ると、優勝の望みを絶たれたが、島田と共に、プレーのペースを速めた[3]

トップグループは杉本英世のスロープレーで2ホールくらい間が開いてしまったが、尾崎を追いかける杉本のプレーが実際視野に入れば精神的な重圧があるため、島田と共に尾崎を援護する[3]

試合には敗れたものの、その飛距離は新人であった尾崎に強烈な印象を植え付けた[4]。後に尾崎はインタビューに答え、「いやぁ、俺なんかより(体の比からいえば)増っさんのほうが飛ばし屋だよ」と言ったため、増田には『ミニジャンボ』『小さな飛ばし屋』『小さな巨人』[5]といった異名がついた[4]

中四国オープンでは1971年の第1回で2位に入り[6]1973年1974年[7]には2連覇を果たし[1]、3連覇を賭けた1975年上野忠美十亀賢二岡部洋三に次ぐと同時に冨田三十士と並んでの6位タイ[8]に入った。

1972年にはダンロップフェニックストーナメントの前身に当たる第1回「フェニックストーナメント」[9]で初日を沼澤聖一松田司郎と並んでの7位タイ[10]でスタートし、2日目には佐々木勝草柳良夫能田征二と並んでの6位タイ[11]に着けた。

1976年には阿蘇ナショナルパークオープン新井規矩雄と並んでの5位タイ[12]ゴルフダイジェストトーナメントでは杉原輝雄小林富士夫金海繁宮本康弘と並んでの8位タイ[13]に入った。

1977年KBCオーガスタでは初日を横島由一栗原孝・尾崎将・青木功宮本康弘と並んでの9位タイでスタートし、好位置に着けた[14]

1980年岐阜関カントリー倶楽部開場15周年記念「岐阜関チェリーカップトーナメント」[15]では初日を野口茂重信秀人小栗正光と並んでの5位タイ[16]でスタートし、金本章生と並んでの3位タイ[17] [18]に入った。

1983年には日本プロで山本善隆磯崎功と並んでの9位タイ[19]に入り、マンシングクラシックでは初日に68をマークし、首位タイの陳志明中華民国)・稲垣太成から3打差の3位[20]に着けた。

1989年の中四国オープン[21]を最後にレギュラーツアーから引退。

KSB瀬戸内海オープン競技委員長[22]も務めたが、1983年には安田春雄が前日21位から首位タイに浮上して十亀とのプレーオフになったが、最終組がホールアウトする前にコースを出る事件が発生[23]。プレーオフの権利を放棄することは罰則の対象ではなかったが、結局優勝は十亀、2位に安田と決まり、プロゴルフ界では以来、優勝争いをする者は最終組がホールアウトするまでコースの外に出ない、という取り決めが常識となった[23]

後に日本プロゴルフ協会副会長に就任し、1999年には日本プロスポーツ大賞功労賞を受賞[1]

高松カントリー倶楽部ヘッドプロ時代には鈴木規夫を育て[24] [5]、後には息子の能成と都彦、娘の能子もプロゴルファーにしている[25]。  

鈴木がプロテストに出かける時には、当時使っていたドライバーのシャフトを1インチ短く切り、「これで戦ってこい」と手渡して送り出した[26]。鈴木は42インチの短いドライバーで受け、ボールは曲がらないため、力いっぱいフェアウエーに落とした[26]

現在は中四国プロゴルフ会名誉顧問[27]のほか、プロゴルファーになる前から興味を持っていた芸術の道に進み、1本の丸線材で細工するワイヤーアーティストとしても活躍[1]。作品はゴルフをモチーフにしたものから、最近は他のスポーツや踊り、楽器を使う人達など幅を広げている[1]

ワイヤーアートはレッスンにも使用したほか、コレクションやピンバッジとしても人気が高まり、現役時代から親しい交友がある松井功会長も太鼓判を押した[28]

ワイヤーアートのほかに彫刻粘土細工、盆栽なども趣味であり、コースの改造などを頼まれた時は、粘土でホールの模型を立体的に作って提案し、役員にも喜ばれた[28]

主な優勝

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  • 1973年 - 中四国オープン
  • 1974年 - 中四国オープン

脚注

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  1. ^ a b c d e いこいこゴルフNET【四国・岡山県のゴルフ情報誌】編集長ブログ”. www.c-dc.jp. 2024年1月23日閲覧。
  2. ^ 尾崎将司。初優勝の舞台裏!@1971年日本プロ【Vol.4】大きな役割を果たした「初日に失った1打!」”. www.golfdigest-minna.jp. 2024年1月23日閲覧。
  3. ^ a b 尾崎将司。初優勝の舞台裏!@1971年日本プロ【Vol.5】同じ組の島田と増田は、尾崎援護に回った!”. www.golfdigest-minna.jp. 2024年1月23日閲覧。
  4. ^ a b 尾崎将司も認める“ミニジャンボ”と呼ばれた男がいた 週刊GD|GDOニュース”. news.golfdigest.co.jp. 2024年1月23日閲覧。
  5. ^ a b 75分の中断後に見えたスキ “九州の若鷹”がマッチ世界王者に引導を渡した5番アイアン【名勝負ものがたり】”. www.alba.co.jp. 2024年1月31日閲覧。
  6. ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2024年1月24日閲覧。
  7. ^ 歴史History”. www.matsunagacc.jp. 2024年1月23日閲覧。
  8. ^ 朝日新聞縮刷版p814 昭和50年7月26日朝刊16面
  9. ^ 毎日放送40年史編纂室(編集)『毎日放送の40年』毎日放送、1991年、258頁。 
  10. ^ 朝日新聞縮刷版p816 昭和47年11月24日朝刊16面「橘田、まずリード 尾崎は51位とさんざん フェニックスゴルフ第1日
  11. ^ 朝日新聞縮刷版p855 昭和47年11月25日朝刊19面「橘田と島田並ぶ 安田追込み 4位に浮上 フェニックスゴルフ第2日
  12. ^ 朝日新聞縮刷版p975 昭和51年9月30日朝刊17面「鈴木規が今季四勝目 阿蘇オープンゴルフ'
  13. ^ 朝日新聞縮刷版p812 昭和51年10月25日朝刊18面「新人中島が逆転優勝 ダイジェスト・ゴルフ
  14. ^ 朝日新聞縮刷版p770 昭和52年8月26日朝刊16面「安田ら三人首位に並ぶ KBCオーガスタ・ゴルフ
  15. ^ 岐阜関カントリー倶楽部オフィシャルサイト | 当倶楽部について”. gifusekicc.com. 2024年3月30日閲覧。
  16. ^ 毎日新聞縮刷版p599 昭和55年4月19日朝刊19面
  17. ^ 毎日新聞縮刷版p655 昭和55年4月21日朝刊19面
  18. ^ “Mya Aye wins Gifuseki Open”. The Business Times. AP: p. 11. (21 April 1980). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/biztimes19800421-1.1.11 
  19. ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】紫雲ゴルフ倶楽部。青木功に競り勝ち、中嶋常幸日本タイトル3連勝。1983年日本プロ”. golfdigest-play.jp. 2024年1月23日閲覧。
  20. ^ 朝日新聞縮刷版p128 昭和58年11月4日朝刊16面
  21. ^ 増田 光彦選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2024年1月23日閲覧。
  22. ^ 第 4 号 - 四国ゴルフ連盟”. www.sgu.gr.jp. 2024年1月23日閲覧。
  23. ^ a b プレーオフ放棄事件 安田春雄が起こしたツアー初期の珍事/残したい記録”. golfdigest-co-jp. 2024年1月23日閲覧。
  24. ^ 鈴木規夫プロ「日本のスズキはオートバイだけじゃない」”. www.nikkan-gendai.com. 2024年1月23日閲覧。
  25. ^ 増田能子 プロフィール|講演会・セミナーの講師紹介なら講演依頼.com”. www.kouenirai.com. 2024年1月23日閲覧。
  26. ^ a b 早瀬利之「プロゴルファーになるには」ぺりかん社、2003年3月、ISBN 978-4-8315-1027-3、p104。
  27. ^ 中四国プロゴルフ会について”. chushikoku-progolf.com. 2024年1月23日閲覧。
  28. ^ a b PGAリポート93”. 2024年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月30日閲覧。

外部リンク

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