土方雄志
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土方雄志 ひじかた かつゆき | |
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生年月日 |
1856年8月31日) (安政3年8月2日) |
没年月日 |
1931年4月24日(74歳没) (昭和6年4月24日) |
称号 | 子爵 |
配偶者 | 多子(阿部正備の娘)(明治31年離縁[1][2]) |
子女 | 土方雄武(養子)[2]。 |
選挙区 | 子爵互選選挙 |
在任期間 | 1890年(明治23年)7月10日 - 1897年(明治30年)7月10日[3] |
在任期間 | 1870年10月11日(明治3年9月17日) - 1871年9月1日(明治4年7月17日)[4] |
天皇 | 明治天皇 |
土方 雄志(ひじかた かつゆき)は、明治から昭和初期の大名、官僚、政治家。
伊勢菰野藩の第2代(最後)藩知事、貴族院の子爵議員などを歴任した。
経歴
[編集]安政3年(1856年)8月2日、第10代藩主・土方雄興の娘婿に当たる土方久己の長男として生まれる。久己(半三郎)は、菰野藩の分家近江の部田1千石の旗本[5]。明治3年(1870年)8月22日、5歳違いの従兄の第12代藩主・雄永の養子となり、同年9月17日、病弱な雄永は隠居し、雄志が家督を相続する。同日、従五位に叙任し、知藩事に就任した[4]。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で藩知事を解任された。同年10月15日、東京へ移り、同年11月、英学を学ぶために慶應義塾に入学する。明治11年、工部省御用掛となった。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[6]。貴族院子爵議員を明治23年(1890年)7月10日から同30年(1897年)7月10日まで在任[3]。明治32年(1899年)、台湾総督府樟脳局書記などを務める。その後、再度、貴族院議員を大正7年(1918年)7月10日[7]から大正14年(1925年)7月10月まで務める[3]。
大正14年(1925年)11月、甥で養子の雄武に家督を譲って隠居する。雄武の実父・土方久徴は雄志の14歳下の実弟で日本銀行第12代総裁。昭和6年(1931年)4月24日に死去した[2]。享年76。
雄武は戦後没落し、旧華族としては、蜂須賀氏、松浦董子と並び斜陽華族として有名である。
栄典
[編集]系譜
[編集]父母
妻
- 阿部多子 ー 阿部正備の娘
養子
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (菰野)土方家初代 1884年 - 1925年 |
次代 土方雄武 |