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土方雄志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土方雄志
ひじかた かつゆき
生年月日 1856年8月31日
安政3年8月2日
没年月日 (1931-04-24) 1931年4月24日(74歳没)
昭和6年4月24日)
称号 子爵
配偶者 多子(阿部正備の娘)(明治31年離縁[1][2]
子女 土方雄武(養子)[2]

選挙区 子爵互選選挙
在任期間 1890年(明治23年)7月10日  - 1897年(明治30年)7月10日[3]

在任期間 1870年10月11日(明治3年9月17日) - 1871年9月1日(明治4年7月17日)[4]
天皇 明治天皇
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土方 雄志(ひじかた かつゆき)は、明治から昭和初期の大名官僚政治家

伊勢菰野藩の第2代(最後)藩知事貴族院の子爵議員などを歴任した。

経歴

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安政3年(1856年)8月2日、第10代藩主・土方雄興の娘婿に当たる土方久己の長男として生まれる。久己(半三郎)は、菰野藩の分家近江の部田1千石の旗本[5]明治3年(1870年)8月22日、5歳違いの従兄の第12代藩主・雄永の養子となり、同年9月17日、病弱な雄永は隠居し、雄志が家督を相続する。同日、従五位に叙任し、知藩事に就任した[4]

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で藩知事を解任された。同年10月15日、東京へ移り、同年11月、英学を学ぶために慶應義塾に入学する。明治11年、工部省御用掛となった。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[6]貴族院子爵議員を明治23年(1890年)7月10日から同30年(1897年)7月10日まで在任[3]。明治32年(1899年)、台湾総督府樟脳局書記などを務める。その後、再度、貴族院議員を大正7年(1918年)7月10日[7]から大正14年(1925年)7月10月まで務める[3]

土方雄志の墓(菰野町見性寺)

大正14年(1925年)11月、甥で養子の雄武に家督を譲って隠居する。雄武の実父・土方久徴は雄志の14歳下の実弟で日本銀行第12代総裁。昭和6年(1931年)4月24日に死去した[2]。享年76。

墓所は三重県菰野町見性寺。俊良院殿雄心高志大居士。

雄武は戦後没落し、旧華族としては、蜂須賀氏松浦董子と並び斜陽華族として有名である。

栄典

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系譜

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父母

養子

脚注

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  1. ^ 土方雄武『現代華族譜要』維新史料編纂会 編(日本史籍協会、1929年)
  2. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 404.
  3. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
  4. ^ a b 新田完三 1984, p. 339.
  5. ^ 菰野藩祖三百年祭のこと広報こもの、平成12年
  6. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、26頁。
  8. ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
菰野土方家初代
1884年 - 1925年
次代
土方雄武