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土岐義虎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土岐義虎
時代 江戸時代
生誕 慶長7年(1602年[1]
死没 宝永4年10月26日1707年11月19日[2]
別名 三三郎(童名)、六左衛門、陸左衛門
戒名 桑門院八竹庵宗見
墓所 紀州幡降寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川頼宣徳川光貞徳川綱教
紀州藩
氏族 土岐氏
父母 父:土岐一圭
兄弟 義虎瑤林院加藤清正女・徳川頼宣室)、大上臈つまの方
不明
頼良、頼氏
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土岐 義虎(とき よしとら)は、江戸時代紀州藩士、寄合衆紀州土岐氏頼忠流の三代目[3]である。異伝名に義良[4]・頼久[5]。異伝号に休庵[6]

生涯

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慶長7年(1602年)誕生。土岐一圭の子。童名は三三郎。六条門跡本願寺[7]に嫁していた父・一圭の従兄妹の縁で、幼少より又従兄弟にあたる六条門跡東承殿と一緒に育った。成長して六左衛門と名乗り、やはり父一圭の従兄弟にあたる頼泰(縫殿助)と持益(市正)を頼って武州へ下った。

徳川頼宣室で加藤清正の息女瑤林院(八十姫)の上臈となっていた妹つまの方の進言により、承応3年(1654年)に徳川頼宣に召し出され、寄合衆となる。知行は250石。義虎と頼宣は同い年であった。頼宣隠居(寛文7年(1667年)後は、二代目紀州藩主徳川光貞に仕え、天和元年(1681年)、命により80歳にて隠居薙髪し、宗見と名乗った。その後、三代目紀州藩主徳川綱教に仕え、「御城内、駕・頭巾、御免。」[8]の厚遇を受けていた。

徳川紀州藩主三代に仕え、宝永4年(1707年)10月26日、106歳にて死去。紀州名草郡の幡降寺に葬る。

系譜

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  • 父:一圭(?-1658)
  • 母:不明
  • 室:不明
    • 子:頼良、頼氏

脚注

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注釈

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  1. ^ 宗秀本土岐家系譜』・『宗見本土岐家系譜』。宝永4(1707)年、106歳にて卒去とあることによる。
  2. ^ 宗秀本土岐家系譜』・『宗見本土岐家系譜
  3. ^ 土岐累代記』・『土岐斎藤軍記』・『寛政重修諸家譜』・『断家譜』・『系図纂要』は、先代一圭と義虎を混同ヵ。
  4. ^ 美濃明細記』・『寛政重修諸家譜
  5. ^ 系図纂要
  6. ^ 宗見本土岐家系譜』・『寛政重修諸家譜』・『断家譜
  7. ^ 教如、または准如とみられる。
  8. ^ 宗見本土岐家系譜

出典

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  1. ^ 紀州頼忠流七代光房(宗秀)による文化8(1811)年の奥付のある旧和歌山藩士土岐家伝来の巻子本。
  2. ^ 紀州頼忠流三代義虎宗見)の書写本を文化元(1804)年に同じく七代光房(宗秀)が書写したと奥付のある旧和歌山藩士土岐家伝来の巻子本。系図は慶応3(1867)年まで記載があり、奥付は無いが、装丁からも明治期の書写と推測される。