土岐義虎
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 慶長7年(1602年)[1] |
死没 | 宝永4年10月26日(1707年11月19日)[2] |
別名 | 三三郎(童名)、六左衛門、陸左衛門 |
戒名 | 桑門院八竹庵宗見 |
墓所 | 紀州幡降寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川頼宣、徳川光貞、徳川綱教 |
藩 | 紀州藩 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐一圭 |
兄弟 | 義虎、瑤林院(加藤清正女・徳川頼宣室)、大上臈つまの方 |
妻 | 不明 |
子 | 頼良、頼氏 |
土岐 義虎(とき よしとら)は、江戸時代の紀州藩士、寄合衆。紀州土岐氏頼忠流の三代目[3]である。異伝名に義良[4]・頼久[5]。異伝号に休庵[6]。
生涯
[編集]慶長7年(1602年)誕生。土岐一圭の子。童名は三三郎。六条門跡本願寺[7]に嫁していた父・一圭の従兄妹の縁で、幼少より又従兄弟にあたる六条門跡東承殿と一緒に育った。成長して六左衛門と名乗り、やはり父一圭の従兄弟にあたる頼泰(縫殿助)と持益(市正)を頼って武州へ下った。
徳川頼宣室で加藤清正の息女瑤林院(八十姫)の上臈となっていた妹つまの方の進言により、承応3年(1654年)に徳川頼宣に召し出され、寄合衆となる。知行は250石。義虎と頼宣は同い年であった。頼宣隠居(寛文7年(1667年)後は、二代目紀州藩主徳川光貞に仕え、天和元年(1681年)、命により80歳にて隠居薙髪し、宗見と名乗った。その後、三代目紀州藩主徳川綱教に仕え、「御城内、駕・頭巾、御免。」[8]の厚遇を受けていた。
徳川紀州藩主三代に仕え、宝永4年(1707年)10月26日、106歳にて死去。紀州名草郡の幡降寺に葬る。
系譜
[編集]- 父:一圭(?-1658)
- 母:不明
- 室:不明
- 子:頼良、頼氏