土岐頼泰
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 延宝5年8月19日(1677年9月15日) |
改名 | 次大夫、縫殿助(通称) |
戒名 | 功勛院殿英山道雄大居士 |
墓所 | 養源寺(東京都文京区) |
幕府 | 江戸幕府 書院番士、目付 |
主君 | 徳川忠長→徳川家光→徳川家綱 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐頼次、母:湯島武房の娘 |
兄弟 | 土岐頼勝、土岐頼高、土岐頼泰 |
妻 | 山岡景重の娘 |
子 | 土岐頼克、娘(梶川分重妻)、梶川頼照、娘(伊東祐春妻) |
土岐 頼泰(とき よりひろ/よりやす)は、江戸時代前期の旗本。
土岐頼次の三男。母は湯島武房の娘。山城国生まれ。通称または幼名は縫殿助、次大夫。妻は山岡景重の娘(蓮壽院殿妙量日覺尼)。子に長男頼克、次男梶川頼照、長女(梶川分重妻)、次女(伊東祐春妻)がいる。
寛永2年(1625年)より徳川忠長に仕えるが、寛永9年(1632年)に忠長が改易された際に勘気をこうむって処士となる。寛永13年(1636年)12月10日に赦免を受け、寛永15年(1638年)に書院番士となり300石の知行を賜る[1]。
慶安元年(1648年)1月2日に目付となる。翌慶安2年(1649年)に西尾忠昭が田中藩に転封された際には、その仰せを伝える役目を担った。慶安4年(1651年)8月16日に布衣の着用を許され、11月21日に廩米300俵を加えられた。万治2年(1659年)2月6日、仰せにより日光山に赴き、博徒を放逐した[1]。
寛文7年(1667年)12月8日に職を辞し、延宝4年(1676年)12月6日に致仕。延宝5年(1677年)8月19日死去[1]。墓所は東京駒込の白華山養源寺。戒名は功勛院殿英山道雄大居士。