和家麻呂
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時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 天平6年(734年) |
死没 | 延暦23年4月27日(804年6月8日) |
官位 | 従三位・中納言、贈従二位・大納言 |
主君 | 桓武天皇 |
氏族 | 和氏 |
父母 | 父:和国守 |
子 | 文継、文麻呂、明覚、女子 |
和 家麻呂(やまと の いえまろ/やかまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。姓は史のち朝臣。贈正一位・高野弟嗣(和乙継)の孫。従五位上・和国守の子とする系図がある[1]。官位は従三位・中納言、贈従二位・大納言。桓武天皇の従兄弟。
経歴
[編集]延暦5年(786年)従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵され、伊勢大掾に任ぜられる。延暦7年(788年)造酒正に遷ると、造兵正・内厩助・治部大輔と京官を歴任する一方、延暦11年(792年)従五位上、延暦12年(793年)正五位下次いで従四位下と、桓武朝半ばより天皇の外戚(従兄弟)として急速に昇進する。
延暦15年(796年)には正四位下・参議に叙任され、渡来系氏族出身者として初めて公卿に昇る[2]。延暦17年(798年)従三位・中納言に叙任され、同じく桓武天皇の従兄弟に当たる、右大臣・神王、大納言・壱志濃王に次いで、太政官で第三位の席次を占める。のち、中務卿・宮内卿を兼帯した。
延暦23年(804年)4月27日薨去。享年71。最終官位は中納言従三位。没後、従二位大納言の官位を追贈された。
人物
[編集]木訥な性格で、才学はなかった。天皇の外戚であったために、人臣として過分の昇進を果たしたが、天から授けられた才能には恵まれなかった。顕職に昇ってからも、旧知の者に会った際には、その者の身分が卑しいとして嫌ったりせず、握手して相語らったとして、見る者を感心させたという[2]。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 延暦2年(783年) 4月20日:史姓から朝臣姓に改姓
- 時期不詳:従七位上
- 延暦5年(786年) 正月7日:従五位下。正月24日:伊勢大掾
- 延暦7年(788年) 2月28日:造酒正
- 延暦8年(789年) 5月28日:造兵正
- 延暦10年(791年) 正月28日:内厩助
- 延暦11年(792年) 正月7日:従五位上[3]。2月2日:兼美濃介[3]
- 延暦12年(793年) 正月7日:正五位下[3]。2月:兼治部大輔[3]。4月2日:従四位下[3]。5月:兼大和守[3]
- 延暦14年(795年) 2月:兼相模守[3]
- 延暦15年(796年) 3月1日:参議、大輔守如元[3]。7月28日:正四位下
- 延暦16年(797年) 3月11日:兼衛門督。7月:兼兵部卿[3]
- 延暦17年(798年) 8月16日:従三位中納言[3]
- 延暦18年(799年) 2月20日:兼治部卿。6月16日:兼中務卿、相模守如故
- 延暦22年(803年) 5月:兼宮内卿
- 延暦23年(804年) 4月27日:薨去(中納言従三位)、贈従二位大納言