吉田良熈
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化7年5月11日(1810年6月12日) |
死没 | 慶応4年4月2日(1868年4月24日) |
官位 | 正三位非参議、神祇権大副 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 卜部氏嫡流吉田家 |
父母 | 父:吉田良長、母:觿子(仙石久道女) |
兄弟 | 良熈、七条信祖、柳原堅子 |
妻 | 石川総安長女 |
子 |
実子:良義、茂子、錦姫 養子:七条壽賀子 |
吉田 良熈[1](よしだ よしひろ[2][3][4])は、江戸時代後期の日本の公卿。
生涯
[編集]吉田良長の子として、文化7年(1810年)に誕生。母は仙石久道の娘。初名は良芳(ながよし)。
文政4年(1821年)、12歳で叙爵され、同6年12月10日(1824年1月10日)、14歳で元服、昇殿を許される。天保8年8月1日(1837年8月31日)、28歳のとき、拝賀した。弘化4年(1847年)、従三位に叙され、38歳で公卿に列せられる。
嘉永元年(1848年)は元日節会の外弁、嘉永3年(1850年)は踏歌節会の外弁を、嘉永4年(1851年)と嘉永5年(1852年)は白馬節会の外弁を務め、その年の12月19日(1853年1月28日)に直衣を許された。嘉永6年3月1日(1858年4月8日)、44歳のとき名を良熈と改名する。安政5年3月12日(1858年4月25日)、廷臣八十八卿列参事件に息子の良義とともに参加した[5]。
慶応4年(1868年)4月1日、神祇権大副を辞任し、その翌日に薨去した。58歳。
官歴
[編集]- 文政4年1月4日(1821年2月6日)、従五位下。
- 文政8年2月11日(1825年3月30日)、従五位上。
- 文政12年1月5日(1829年2月8日)、正五位下。
- 天保8年5月22日(1837年6月24日)、侍従。
- 天保8年10月24日(1837年11月21日)、従四位下。
- 天保11年11月26日(1840年12月19日)、侍従を服解[注 1]。
- 天保12年1月20日(1841年2月11日)、侍従に復任。
- 天保12年2月4日(1841年3月26日)、従四位上。
- 天保12年12月22日(1842年2月2日)、神祇権大副、侍従は如故。
- 天保15年1月5日(1844年2月22日)、正四位下。
- 弘化2年8月20日(1845年9月21日)、侍従・神祇権大副を服解[注 2]。
- 弘化2年10月11日(1845年11月10日)、侍従・神祇権大副に復任。
- 弘化4年5月23日(1847年7月5日)、従三位。
- 嘉永4年1月5日(1851年2月5日)、正三位[6]。
- 安政3年2月4日(1856年3月10日)、侍従を辞任。
- 慶応4年4月1日(1868年4月23日)、神祇権大副を辞任。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『公卿補任』、『公卿人名大事典』の表記。
- ^ “鎮守の杜の紹介:その他”. 古宮神社ホームページ. 2020年8月7日閲覧。 - ここに「卜部良熙(うらべ よしひろ、吉田良熙)」とある。
- ^ 野島寿三郎 2015.
- ^ 小和田哲男監修 2003.
- ^ 刑部芳則 2018, p. 41.
- ^ 『公卿補任』孝明天皇嘉永四年条。正三位の項には「正月五日叙。」とあるが、昇叙前の従三位の項には「五月五日叙正三位。」とある。前者を採用した。
参考文献
[編集]- 黒板勝美; 國史大系編修會 編『公卿補任』《第五篇》吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。
- 小和田哲男監修『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年。
- 野島寿三郎 編『公卿人名大事典』(普及)日外アソシエーツ、2015年。
- 刑部芳則『公家たちの幕末維新』中央公論新社〈中公新書2497〉、2018年。