吉田兼敬
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 承応2年10月22日(1653年12月11日) |
死没 | 享保16年12月17日(1732年1月14日) |
改名 | 万丸(幼名)→兼連(初名)→兼敬 |
神号 | 妙応霊神 |
官位 | 侍従、左兵衛督、神祇権大副、正二位、非参議 |
主君 | 霊元天皇→東山天皇→中御門天皇 |
氏族 | 卜部氏嫡流吉田家 |
父母 | 父:吉田兼起、母:飛鳥井雅章の娘 |
兄弟 | 振、兼敬、小倉公連室 |
妻 | 花園実満の娘 |
子 |
兼章、舟橋尚賢、樋口康熙室、裏松益光室、正親町三条公統養女、万里小路尚房室、八条隆英室、兼祥 養子:振 |
吉田 兼敬(よしだ かねゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿・神道家・歌人。吉田兼起の子。官位は正二位。吉田神社の祠官、吉田家当主。
略歴
[編集]承応2年(1653年)、吉田兼起の子として誕生。初名は兼連。
祖父・吉田兼英は生来病弱で、大伯父・萩原兼従は一子相伝の奥義を吉川惟足に伝授した。しかし、父・兼起も伝授を受けることなく明暦3年(1657年)に卒去したため、幼くして家を嗣ぎ周囲の補佐を得て神道の教養を深めた。寛文5年(1665年)に諸社禰宜神主法度が発布され吉田家の権威が確立され、寛文8年(1668年)と同12年(1672年)に吉川惟足より返し伝授を受け、父祖の遺業の安定と拡充を図り家の基を固めた。
また、霊元天皇に『祓本』を相伝、次いで東山天皇に『祓本』を講じ、『御奉幣』『八雲神詠口訣』などの相伝にも奉仕した。
元禄10年(1697年)、名を兼敬と改めた。享保14年(1729年)、正二位となる。
享保16年(1732年)、薨去。
著作には『神道大意』『塩釜社縁起』『椋五所大明神由来』などがある。その他、『日本書紀』神代巻、『中臣祓』『六根清浄大祓』などの注釈書も遺しており、歌人としても知られ歌集も伝えられる。