熊野神社 (鎌倉市)
熊野神社(くまのじんじゃ)は、神奈川県鎌倉市にある神社である。
熊野神社とは
[編集]熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指す。
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。しかしながら、中世熊野詣を担った京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになる。
こうした一般の参詣者とそれに伴う収入に経営の基盤を求めた13世紀半ば以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いた。この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立した。
本項ではそうした熊野神社のうち、神奈川県鎌倉市に所在する神社群について扱う。
鎌倉市の熊野神社
[編集]鎌倉市内の熊野神社および熊野神社と同系統の神社は4社ある。大船地区にある熊野神社については、社史や祭神からすると上記の定義に合致しないが、参考として取り上げる。
熊野神社 (手広)
[編集]熊野神社 | |
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所在地 | 鎌倉市手広779 |
位置 | 北緯35度19分35.07秒 東経139度30分25.83秒 / 北緯35.3264083度 東経139.5071750度 |
主祭神 | 伊弉諾命、事解男神、速玉男神 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 1月28日(湯立神楽)、7月最終もしくは8月最初の日曜(神輿渡御) |
手広の鎮守社[1][2]。かつては青蓮寺支院の寶積院が別当として管理運営にあたっており、如意輪観音を本地仏としたという。しかしながら、寶積院が廃寺となったために史料が散逸し、くわしい社歴は詳らかではない。
今日に伝わる数少ない史料は、社蔵の棟札で、慶安元年(1648年)、万治元年(1658年)、天明8年(1788年)の3度にわたって、在地の領主が造修に当たった旨が記されている。
交通機関
[編集]江ノ電バス 鎖大師下車 徒歩3分
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鳥居
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参道
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社殿
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扁額
熊野新宮
[編集]熊野新宮 | |
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所在地 | 鎌倉市極楽寺2-3-1 |
位置 | 北緯35度18分40.24秒 東経139度31分51.38秒 / 北緯35.3111778度 東経139.5309389度 |
主祭神 | 日本武命、速玉男命、素戔嗚命、建御名方命、熊野大神 |
創建 | 1269年(文永6年)[3] |
例祭 | 7月第1日曜 天王祭(神輿渡御)、9月9日(鎌倉神楽) |
熊野新宮(くまのしんぐう)は極楽寺の鎮守社[4][3]。単に新宮社とも。極楽寺開山忍性の行跡を記した『忍性菩薩行状略頌』に文永6年(1269年)創建の記述が見られる。鎌倉幕府の崇敬を受けた。幕府滅亡後は足利氏の庇護の下に入り、建武2年(1335年)には足利直義が土地を寄進している。
極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の2社があったが、いずれも関東大震災で倒壊したため、1928年(昭和3年)に合祀された。関東大震災の折には、熊野新宮も損傷を受けており、1927年(昭和2年)に社殿が再建されている。
交通機関
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鳥居
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社殿
熊野神社 (浄明寺)
[編集]熊野神社 | |
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所在地 | 鎌倉市浄明寺64 |
位置 | 北緯35度19分25.16秒 東経139度34分12.55秒 / 北緯35.3236556度 東経139.5701528度 |
主祭神 | 伊弉諾命、伊弉冊命、天宇頭女神 |
社格等 | 村社 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 7月17日に近い休日(湯花神楽) |
浄明寺の鎮守社[5]。勧請の年代は詳らかではないが、応永年間(1394年~1427年)と永正年間(1504年~1521年)に社殿を再建したと伝えられている。『新編相模国風土記稿』には、
熊野社、泉水ケ谷字東之澤、宝生庵跡の東にあり。此吾を御坊と云う。村の鎮守なり。 — 新編相模国風土記稿
このほか、文久3年(1863年)の再建時の棟札や嘉永7年(1854年)の銘が入った社号扁額が伝えられている。
交通機関
[編集]京浜急行バス 浄明寺下車 徒歩5分
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参道入り口
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参道から境内をのぞむ
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社殿
十二所神社
[編集]十二所神社 | |
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所在地 | 鎌倉市十二所285 |
位置 | 北緯35度19分24.89秒 東経139度34分51.77秒 / 北緯35.3235806度 東経139.5810472度 |
主祭神 | 天神七柱、地神五柱 |
社格等 | 村社 |
創建 | 1278年(弘安元年) |
例祭 | 9月9日に近い日曜日(例大祭) |
十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)は十二所の鎮守社。近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)・十二天明神社[7]、または熊野十二所権現社とも称された[8]。
創建年代は不詳。古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられる(『新編相模国風土記稿』[9])が、天保9年(1838年)に現在地に再建された。当時、別当寺院を務めていた明王院所蔵の記録『十二所権現社再建記』によると、この再建事業は、氏子三十余軒による土地・用材の寄進と土木開墾の奉仕によるものであるという[10]。
明治新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称され、1837年(明治6年)、十二所地区の鎮守として村社に列せられた[7][8]。
神社の名前は「じゅうにそう」だが、この神社の名を元にしたとされる周辺地域の地名は「じゅうにそ」であり、何故違うのかは不明。
疱瘡神、宇佐八幡、地主神
交通機関
[編集]京浜急行バス 十二所神社下車 徒歩1分
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社殿
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境内外観
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扁額
熊野神社 (大船)
[編集]熊野神社 | |
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所在地 | 鎌倉市大船2033 |
位置 | 北緯35度20分47.06秒 東経139度32分45.31秒 / 北緯35.3464056度 東経139.5459194度 |
主祭神 | 日本尊命 |
社格等 | 村社 |
創建 | 1579年(天正7年) |
例祭 | 9月24日に近い日曜日(鎌倉神楽、子供神輿渡御) |
大船の鎮守社[11][12]。『相模風土記』が伝えるところによれば、天正7年(1579年)、甘粕長俊が束帯姿の木像を勧請して祀ったという[12]。木像は今も御神体として祀られており、その台座には長俊勧請の旨が記されている。明治期の神仏分離までは、隣接する真言宗寺院の多聞院が長らく別当を務めた。
甘粕氏は相模平氏の一族で、長俊は神仏への信心が篤いことで知られ、他にも永禄10年(1567年)、常楽寺の文殊菩薩像の修理も行っている。
境内社
[編集]交通機関
[編集]江ノ電バス 常楽寺下車 徒歩5分
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鳥居
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参道
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扁額
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琴平宮
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琴平宮の扁額
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能舞台
脚注
[編集]- ^ 以下、吉田[2002: 112-113]による。
- ^ 新編相模国風土記稿 手廣村 熊野社.
- ^ a b 新編相模国風土記稿 極楽寺村 新宮権現社.
- ^ 以下、吉田[2002: 70-71]および神奈川県神社庁[n.d.]による。
- ^ a b 以下、吉田[2002: 54-55]および神奈川県神社庁[n.d.]による。
- ^ 新編相模国風土記稿 浄明寺村 熊野社.
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会[1984: 474]。
- ^ a b 吉田[2002: 56]。
- ^ 新編相模国風土記稿 十二所村.
- ^ 吉田[2002: 56]、神奈川県神社庁[n.d.]
- ^ 以下、吉田[2002: 86-87]による。
- ^ a b 新編相模国風土記稿 大船村 熊野社.
参考文献
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会、1984、『神奈川県』、角川書店(角川日本地名大辞典)
- 鎌倉市鎌倉市史編纂委員会編、1959、『鎌倉市史 社寺編』、鎌倉市
- 神奈川県神社庁. “鎌倉市の神社”. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月29日閲覧。
- 宮家 準、1996、『熊野修験』、吉川弘文館(日本歴史叢書) ISBN 4642066497
- 吉田 茂穂、2002、『鎌倉の神社小事典』、かまくら春秋社 ISBN 4774002054
- 「山之内庄 十二所村」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之93村里部鎌倉郡巻之25、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/7。
- 「山之内庄 浄明寺村 熊野社」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之94村里部鎌倉郡巻之26、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/14。
- 「山之内庄 極楽寺村 新宮権現社」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之97村里部鎌倉郡巻之29、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/33。
- 「山之内庄大船村 熊野社」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之98村里部鎌倉郡巻之30、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/42。
- 「深澤庄 手廣村 熊野社」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之105村里部鎌倉郡巻之37、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/100。