劉牧群
劉牧群 | |
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『中国当代名人伝』1948年 | |
生誕 |
1905年2月29日[1] 清福建省沙県 |
死没 |
1979年4月19日(74歳没) 中華民国台北市 |
所属組織 | 中華民国空軍 |
軍歴 |
? - 1927(北洋軍) 1927 - 1962(中華民国空軍) |
最終階級 | 中将 |
除隊後 |
総統府戦略委員会顧問 中華航空公司董事長 |
劉 牧群(りゅう ぼくぐん / リュー・ムクン)は、中華民国空軍の軍人。最終階級は中将。字は挺生、号は芳秀。元の名は劉芳秀であったが、後に劉牧群に改名した[2]。
劉牧羣と表記されることもある[3]。
生涯
[編集]沙県鳳崗小学校卒業[4]。1918年、福州英華書院に入学[4]。1923年に卒業すると劉佐成の推薦で保定航空教練所(のち保定航空学校に改称、所長:沈徳燮)に入所[4]。同期には楊鶴霄、石邦藩、崔用徳(崔滄石)がいる。在学期間中に国民第3軍航空隊に加わる。1925年7月11日、国民第3軍航空司令部航空先遣隊(隊長:楊鶴霄)隊員として入陝作戦に参加[5]。同年秋、保定航空学校卒業。同学校の学生で編成された航空隊に参加。。
1926年6月、討賊聯軍航空司令部航空第1隊(隊長:趙歩墀)中隊長[6]。同年9月1日、聯軍航空司令部は直魯連軍に接収。9月2日、直魯連軍によって直隷航空処(監督兼処長:袁振銘)が設立され、航空隊(隊長:韋庭錕)飛行員に任命[7]。北伐で国民革命軍に加わり、1927年10月20日に唐生智討伐のため、西征軍水上飛機隊(隊長:曹宝清)が編成され、同部隊の飛行員(飛機師)[8][9]。
1928年11月、軍政部航空署航空第1隊(隊長:高在田)副隊長[10]。1929年5月、南京航空司令部航空第3隊隊長[11]。1930年、航空第3隊隊長として中原大戦に参加[12]。1933年7月18日、軍政部航空署軍務処科長[13]。軍事委員会南昌行営航空指揮部航空中隊長、航空署江西省航空試験場工務処長を歴任。第一次から第三次までの囲剿作戦に参加。
1933年7月18日、空軍少校上級[14]。同年9月2日、空軍中校本級[15]。
1934年5月、航空委員会第2処(教育処、処長:陳慶雲)副処長[16]。
1935年9月7日、空軍中校[17]。同年11月に行われた秋季大演習で西軍航空大隊隊長[18]。
1936年の両広事変に前後して広東空軍の中央帰順及び改編に携わった。航空委員会広東方面司令部代理司令官、中央航空学校広州分校主任(1936年9月1日[19])などを歴任した。
日中戦争が勃発すると1937年9月14日に駐粤空軍指揮部が編成され、指揮官に就任[20]。南京の空軍第1軍区司令官の沈徳燮がソ連に航空機の購入に赴いている間、その代理司令官として南京防空戦を指揮。1938年3月、航空委員会航政処処長[21]。4月、空軍第2路司令部司令官。1939年5月、空軍機械学校教育長[22]。1940年7月19日、空軍上校[23]。1940年7月から1942年7月まで中国陸軍大学特別班第5期に在学。1943年3月1日、空軍参謀学校校長[24]、同年5月、空軍軍官学校教育長[25]。
1947年9月、空軍総司令部(司令官:周至柔)訓練司令部司令官[26]。1948年9月22日、空軍少将[27]。1948年10月、空軍総司令部参謀長兼空軍教練司令部司令官。1949年4月、総司令部とともに台湾に渡ったのちも同職を継続し、台湾への軍隊及び物資の空輸を担当した。
1950年3月21日、台湾総統府侍衛室侍衛長[28]。1954年、総統府第三局局長。同年、空軍中将。後に総統府戦略委員会顧問。1962年に軍を退役後は、台湾僑資事業促進会理事、台湾糖業公司顧問、華民紙業公司董事長、大群建設公司董事長、中華航空公司董事長などを務めた。
1979年4月19日、台北にて病死。
勲章
[編集]- 五等宝鼎勲章 1931年4月29日[29]
- 陸海空軍甲種一等獎章 1943年7月31日[30]
- 三等空軍復興栄誉勲章 1943年10月10日[31]
- 四等宝鼎勲章 1944年8月13日[32]
- 二等空軍復興栄誉勲章 1945年8月14日[33]
- 忠勤勲章 1945年10月10日[34]
- 三等宝鼎勲章 1946年8月14日[35]
出典
[編集]- ^ “陸海空軍軍官佐任官名簿 Part3” (PDF) (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 136. 2018年2月27日閲覧。
- ^ 李 1973, p. 365.
- ^ “中央報告 (二)(002-080101-00029-010)” (中国語). 典蔵臺灣. 2017年1月21日閲覧。
- ^ a b c “国民党空军少将——刘牧群” (中国語). 沙县人民政府. 2017年10月20日閲覧。
- ^ 馬 1994, p. 205.
- ^ 馬 1994, p. 183.
- ^ 馬 1994, p. 184.
- ^ 李 1973, p. 106.
- ^ 馬 1994, p. 386.
- ^ 馬 1994, p. 396.
- ^ 馬 1994, p. 399.
- ^ 盧 1974, p. 38.
- ^ “国民政府広報第1186号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年1月12日閲覧。
- ^ “国民政府広報第1187号(民国22年7月20日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月20日閲覧。
- ^ “国民政府広報第1227号(民国22年9月5日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2018年10月27日閲覧。
- ^ 馬 1994, p. 411.
- ^ “国民政府広報第1840号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年1月12日閲覧。
- ^ “民國二十四年度秋季大演習記事附錄第二巻” (PDF) (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 11. 2018年9月21日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 66.
- ^ 盧 1974, p. 162.
- ^ 馬 1994, p. 415.
- ^ 盧 1974, p. 232.
- ^ “国民政府広報渝字第276号(民国29年7月20日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月10日閲覧。
- ^ “歷任院長”. 國防大學. 2011年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月5日閲覧。
- ^ “空軍建校沿革史” (中国語). 中國飛虎研究學會. 2018年1月9日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 289.
- ^ “総統府広報第107号(民国37年9月22日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “総統府広報第248号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月18日閲覧。
- ^ “国民政府広報第760号(民国20年4月30日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2019年11月24日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第593号(民国32年8月4日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月22日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第612号(民国32年10月10日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月19日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第701号(民国33年8月16日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月19日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第830号(民国34年8月14日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月1日閲覧。
- ^ “国民政府広報 渝字第929号(民国34年12月11日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2018年1月2日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2598号(民国35年8月14日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2021年3月11日閲覧。
参考
[編集]- 陈予欢 (2009). 陆军大学将帅录. 广州出版社. pp. 203
- 马毓福編著 (1994). 1908-1949中国军事航空. 航空工业出版社
- 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部
- 李天民 (1973). 中國航空掌故. 中國的空軍出版社
軍職 | ||
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先代 李泯 |
航空第3隊長 第2代?:1930.7.21 - 1933.7.17 |
次代 張有谷 |
先代 なし |
航空委員会航政処長 初代:1938.3 - 1938.4 |
次代 王豊? |
先代 楊鶴霄 (代理) |
空軍第2路司令官 初代:1938.4 - 1939.5 |
次代 邢剷非 |
先代 王士倬 |
空軍機械学校教育長 第2代:1939.5 - 1940? |
次代 ? |
先代 張廷孟 (代理) |
空軍第1路司令官 第5代:1941.4 - 1943.2 |
次代 楊鶴霄 |
先代 周至柔 |
空軍参謀学校校長 第2代:1943.3.1 - 1943.4.13 |
次代 王叔銘 |
先代 王叔銘 |
空軍軍官学校教育長 第5代:1943.5 - 1947? |
次代 胡偉克 |
先代 なし |
訓練司令部司令官 初代:1947.9 - 1950 |
次代 徐康良? |
先代 王叔銘 |
空軍総司令部参謀長 第2代:1948.10 - 1949.11 |
次代 劉国運 |
先代 石祖徳 |
総統府侍衛長 第2代:1950.3.15 - 1954.3 |
次代 皮宗敢 |
先代 施覚民? |
総統府第三局局長 第3代?:1954.3 - ? |
次代 ? |