沈徳燮
沈徳燮 | |
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生誕 |
1895年11月16日[1] 清福建省福州 |
死没 |
1983年 中華民国台湾 |
所属組織 |
直隷軍閥 国民軍 中華民国空軍 |
最終階級 |
陸軍少将(直隷軍閥) 空軍少将(中国空軍) |
除隊後 |
中国航空公司総経理 宝石店経営 |
沈 徳燮(しん とくしょう/シェン・デーシェ、沈德燮)は、中華民国空軍の軍人。字は少悦。
経歴
[編集]現在の福州市倉山区城門鎮出身。福州英華書院及び協和大学を経て[2]、1913年7月、煙台海軍学校8期駕駛班卒業。同期には中山艦艦長として壮絶な最期を遂げた薩師俊がいる。1917年3月、南苑航空学校第2期卒業[3]。1920年、北京航空事務処の主催で蔣逵、江光瀛、呂德英らとともにイギリスに留学。1921年6月、海軍部の主催で蔣逵とともにアメリカに留学[4]。
1922年、保定航空隊(隊長:敖景文)航空練習班教官兼主任[5]。23年冬、航空練習班は保定航空教練所(所長:鄧建中)となり、教育長[6]。1924年3月19日、工兵上校[7]。1924年4月、保定航空教練所所長。
1924年9月、中央航空司令部航空第2隊隊長[8]。第2次奉直戦争に参加。10月、保定航空教練所は孫岳率いる国民軍第3軍に接収され、保定航空学校に改称。また、1925年1月に国民第三軍航空司令就任。
1925年12月6日、陸軍少将[9]。
国民革命軍航空処に加入し、1927年4月に蒋達、黄静波と共に中央軍事政治学校航空籌備委員[10]。同年10月1日、国民革命軍海軍航空処処長[11]。軍事委員会軍政庁航空処飛機工廠長(1928年8月3日[12])、1929年9月、上海海軍總司令部飛機處處長[13]。9月18日、中華航空協進第2回全国代表大会監察委員[14]。11月、航空処飛行訓練班教官[15]。
海軍航空処長(1930年4月1日[16])、飛行考試委員会主任委員(1931年春[17])、軍政部航空署軍務処長(1933年7月17日[18])を歴任。
1934年5月、南昌にて航空委員会が設立されると第一処(参謀処)処長[19]。1935年9月4日、空軍上校[20]。1936年1月、航空委員会は南京に移駐。1月14日、航空気象委員会第一処処長[21]。
日中戦争勃発後の8月、南京第一空軍区司令[22]。ただしこの時、沈は王叔銘、佟彦博とともに戦闘機200機・爆撃機100機の購入交渉のためソ連に赴いており[23]、その間は職務を劉牧群に代行させていたものと思われる。
12月の南京陥落後、第一空軍区司令部は蘭州に移る。1939年1月、航空委員会訓練総監部総監。1940年5月25日、空軍少将[24]。1941年3月26日、航空委員会副主任。1943年、カイロ会談に中国空軍代表として参加。
1945年2月、退役し中国航空公司総経理。同年8月、国際民航機臨時理事会儀出席。
1947年5月、中国航空公司高級顧問。国共内戦後、中国航空は香港に拠点を置く。1949年11月9日、中国航空のパイロットらが中共に転じた両航事件が起こり、11月15日、総経理に復帰。しかし中国航空は解散が決まり、香港にて清算事務を行う。1950年3月、香港にて一年ほど宝石店を経営し、台湾に渡った[25]。
栄典
[編集]出典
[編集]- ^ 軍事委員會銓敍廳. “陸海空軍軍官佐任官名簿第1巻 part2” (PDF) (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 74. 2018年2月28日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 7.
- ^ “南苑航空學校” (中国語). 中國飛虎研究學會. 2017年9月6日閲覧。
- ^ 金、p.445
- ^ 中國飛機尋根(之十六)
- ^ “直系空軍” (中国語). 中國飛虎研究學會. 2017年9月8日閲覧。
- ^ “政府広報第2872号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年9月6日閲覧。
- ^ 李 1973, p. 42.
- ^ “政府広報第3476号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年9月6日閲覧。
- ^ 馬 1994, p. 610.
- ^ 馬 1994, p. 611.
- ^ “国民政府広報第80期” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年9月6日閲覧。
- ^ 中國飛機外篇(之九)
- ^ 馬 1994, p. 400.
- ^ 金、p.p.155
- ^ “国民政府広報第433号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年9月6日閲覧。
- ^ 李 1973, p. 82.
- ^ “国民政府広報第1185号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年9月6日閲覧。
- ^ 馬 1994, p. 411.
- ^ “国民政府広報第1837号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年9月6日閲覧。
- ^ “劉廣英『寫風暴的人』” (PDF) (中国語). 中華航空氣象協會. 2017年9月8日閲覧。
- ^ 馬 1994, p. 414.
- ^ “褚晴暉『The Legend of Tsoo Wong 王助教授事略』” (PDF) (中国語). 高雄科學工藝博物館. 2017年9月8日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第261号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年9月6日閲覧。
- ^ “第一节人物传略*沈德燮” (中国語). 上海市地方志办公室. 2017年9月8日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2243号(民国26年1月1日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月19日閲覧。
- ^ a b “国民政府広報渝字第612号(民国32年10月10日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月19日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第701号(民国33年8月16日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月19日閲覧。
参考
[編集]- “国軍空軍少将介紹” (中国語). 中国黄埔軍官学校網. 2017年9月6日閲覧。
- 金智『青天白日旗下民國海軍的波濤起伏(1912-1945)』獨立作家出版、2015.5。ISBN:9789865729707
- 马毓福編著 (1994). 1908-1949中国军事航空. 航空工业出版社
- 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部
- 李天民 (1973). 中國航空掌故. 中國的空軍出版社
軍職 | ||
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先代 王助 |
海軍航空処長 第2代:1930.4.1 - 1936.2.11 |
次代 陳文麟 |
先代 なし |
航空委員会第1処処長 初代:1934.5 - 1937.5 |
次代 張有谷 |
先代 なし |
第一空軍区司令部 初代:1937.8 - 1939.5 |
次代 黄秉衡 |
先代 毛邦初 |
航空委員会副主任 第4代?:1941.3.26 - 1943.1 |
次代 毛邦初 |