張廷孟
張廷孟 | |
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日本の降伏文書調印式に参加する張廷孟(右一番目) | |
生誕 |
1908年11月15日[1] 清、山東省青島市 |
死没 |
1973年5月5日(64歳没) アメリカ合衆国 |
所属組織 | 中華民国空軍 |
最終階級 | 空軍中将 |
張 廷孟(ちょう ていもう / チャン・ティンメン、张廷孟)は、中華民国空軍の軍人。字は紹孔。
経歴
[編集]嶗山の漢河村出身。本籍は即墨区[2][3]。1925年1月、黄埔軍官学校第3期歩兵科入学。同期にのち空軍副司令となる毛邦初。在学中は第2次東征作戦に参加した[4]。
1926年12月、広東航空学校第2期卒業。半年後、ソ連のボリソグレプスクの第2航空学校(現V・P・チカロフ名称ボリソグレプスク航空乗組員訓練航空センター)に留学[3]。
1930年1月20日、軍政部航空第2隊隊長[6]。中原大戦に参加し、戦後は済南に駐留した[4]。
1932年7月16日、軍政部航空第6隊隊長[7]。
1933年7月18日、軍政部航空第4隊隊長[8]。
1936年10月、空軍第2大隊長[10]。
1937年7月、天津支隊指揮官[11]。しかし日本軍の攻撃を抑えることは出来ず、7月30日に天津は占領される。8月5日、上海警備のため信陽[12]、続いて広徳への移駐を命じられる。8月14日、副隊長の孫桐崗主導で上海の日本軍陣地への爆撃が行われるが、租界内の民間人を多数巻き添えにする失態を犯した。
1937年11月、空軍前敵総指揮部轟炸司令[13]。南京保衛戦に参加[4]。翌年3月の前敵総指揮部解体以降はソ連空軍志願隊との連絡業務や参謀職に就いていたと思われるが、実質的に左遷であったようで、4月29日の漢口鬼王空戦時点では自身より後に第1大隊長になった邢剷非にすら反論できない立場であった[14][15]。
1938年5月、空軍第1路司令官[16]。徐州会戦や武漢会戦などの空戦に参加[4]。
1941年4月、空軍総指揮部参謀長[18]。
1943年2月、航空委員会主席参事[19]。同年9月8日、空軍第1路司令[20][21]。11月5日、桂林にて成立した中美空軍混合團中方司令(美方司令はウィンスロー・キャロル・モース大佐)[22]。
1945年9月9日、南京の中央軍官学校大礼堂にて行われた中国戦区における日本の降伏調印式に空軍代表として参加[23]。9月14日、台北松山飛行場に赴き、台湾における機材接収業務の準備を行う[24]。南京に帰還後は北平空軍指揮所指揮官兼空軍第1路司令官[21]。
1946年9月、第1軍区司令官[25]。東北剿匪総司令部空軍指揮部指揮官などになり、東北部の戦闘に参加[21]。
1949年、台湾に退避後は空軍総司令部参謀長、顧問、中華民国総統府戦略顧問などを務めた[21]。1953年10月、空軍中将となり、同年12月に退役[21]。軍を退役後はアメリカに移住。1973年5月5日、台北で病死[21]。台北県新店碧潭の空軍公墓に埋葬された[21]。
その他
[編集]当時志願隊の政治委員であったアンドレイ・リトフ大隊政治委員(のち空軍上級大将)は、回想録「五洋の騎士」(ロシア語: Рыцари пятого океана)で、華北出身で第2航空学校を卒業し、ロシア語が話せる「チャン大佐」(полковник Чжан)なる人物が共同作戦を行うため志願隊に出向して来たと述べており、張廷孟の事と思われる。
東洋人では珍しく長身かつスマートな体格とされ、国際第14大隊のパイロットと交渉するなど志願隊のサポートに全力を尽くす反面、夜間着陸ではリトフにしがみ付いていたり、麻薬の蔓延るスラム街に憤ったリトフにあきらめ気味な言葉を返すなど[28]、親切だがどこか小役人的なコメディリリーフ的人物として描かれている。
栄典
[編集]- 五等宝鼎勲章 1931年4月29日[29][3]
- 五等雲麾勲章 1936年11月12日[30]
- 四等雲麾勲章 1944年8月3日[31]
- 青天白日勲章 1944年8月13日[32]
- 二等空軍復興栄誉勲章 1945年8月11日[33]
- 二等雲麾勲章 1947年8月14日[34]
- 二等宝鼎勲章 1947年11月15日[35]
出典
[編集]- ^ “陸海空軍軍官佐任官名簿 Part3” (PDF) (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 136. 2018年2月27日閲覧。
- ^ 衣復恩. “我的回憶” (PDF) (中国語). 立青文教基金會. 2017年11月16日閲覧。
- ^ a b c “現役軍官資績簿 第三冊” (PDF) (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 82. 2018年5月21日閲覧。
- ^ a b c d 陳 2017, p. 707.
- ^ “国民党中央航空学校教育系统与管理体制述略” (PDF) (中国語). pp. 56. 2017年11月17日閲覧。
- ^ “国民政府広報第374号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “国民政府広報洛字第14号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “国民政府広報第1186号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “国民政府広報第1840号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年10月26日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 66.
- ^ 盧 1974, p. 93.
- ^ 王德中. “抗战初期的华北空中战场” (PDF) (中国語). 《抗日战争研究》1995年第2期. 2017年10月27日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 185.
- ^ 何邦立 (2015). 筧橋精神 ―空軍抗日戰爭初期血淚史. 國家書店. pp. 132
- ^ 中山雅洋『中国的天空〈上〉―沈黙の航空戦史』大日本絵画、2007年、333頁。
- ^ 盧 1974, p. 204.
- ^ “国民政府広報 渝字第316号(民国29年12月7日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月26日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 247.
- ^ 盧 1974, p. 260.
- ^ 盧 1974, p. 267.
- ^ a b c d e f g 陳 2017, p. 708.
- ^ 马毓福. “抗日战争期间的中美空军混合团” (PDF) (中国語). 军事历史 1996年第3期. 2017年10月27日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 278.
- ^ “臺灣文献季刊 66卷第3期” (PDF) (中国語). 國史館臺灣文獻館. 2017年10月27日閲覧。
- ^ 盧 1974, p. 288.
- ^ “国民政府職官年表” (PDF) (中国語). 中央研究院近代史研究所. pp. 176. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “総統府広報第107号(民国37年9月22日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “Рытов А.Г. Рыцари пятого океана” (ロシア語). Военная Литература. 2017年10月27日閲覧。
- ^ “国民政府広報第760号(民国20年4月30日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2019年11月24日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2201号(民国25年11月13日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2020年3月18日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第698号(民国33年8月5日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第701号(民国33年8月16日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第828号(民国34年8月11日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月26日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2903号(民国36年8月14日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2021年3月11日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2980号(民国36年11月15日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2021年3月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 盧克彰編著『空軍建軍史話』空軍總部政治作戰部、1974年。
- 陳予歡『黃埔軍校第三期生全記錄 上巻』思行文化傳播有限公司、2017年。ISBN 978-986-92736-7-1。
軍職 | ||
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先代 欧陽璋 |
航空第2隊長 第3代:1930.1.20 - 1932.7.16 |
次代 石邦藩 |
先代 黃毓沛 |
航空第6隊長 第3代:1932.7.16 - 1933.7.17 |
次代 金雯 |
先代 楊鶴霄 |
航空第4隊長 第3代:1933.7.17 - 1936.10? |
次代 王振五? |
先代 なし |
航空第2大隊長 初代:1936.10 - 1938.3 |
次代 金雯 |
先代 楊鶴霄 |
空軍第1路司令官 初代:1938.5 - 1939? 第7代:1943.6 - 1946.9? |
次代 なし |