利用者:Yumisong/sandbox4
ジェンダー論争(ジェンダーろんそう)は、日本の美術界において1997年から98年にかけておこった美術批評誌上で始まった論争のことを指す[1]。1997年8月に西洋美術史の領域から論争は始まり、翌年の1998年1月からは日本美術史からも起こった。両者は異なった論者からの批判であったが、ジェンダー側の応答で横断した内容にもなっている。
西洋美術史では、90年代に日本でジェンダーの視点を持った展覧会が相次いで開催されたことに対する一種のバックラッシュとして、美術系のミニコミ雑誌『LR(Live and Review)』で行われた三田晴夫と小勝禮子・若桑みどりの論争があった。日本美術史では、千野香織の論文発表がきっかけとなって『あいだEXTRA』の誌面上で稲賀繁美と若桑みどりの論争や『美術史論叢』の紙面上で小川裕允からの批判があった。加えて、美術手帖別冊での座談会や、笠原美智子へのインタビュー、北原恵による考察などを含む一連のジェンダー思想に対する批判と応答などがある。
主な論者
[編集]主な論者は以下である。また肩書は論争当時のものである。
- ジェンダー思想への批判
- 批判へのジェンダー側からの応答
- 論争の分析
背景
[編集]ジェンダー論争があった90年代の日本の美術展の状況
[編集]欧米で始まったとされるフェミニズムは、1970年代の欧米の美術批評[2]から日本の美術界にも導入され、定着の兆しを見せ始めた[3]。独立行政法人国立美術館「アートコモンズ」[4]に情報登録されている、1990年代に日本の美術館で行われた主な女性アーティストまたは女性コレクターの展覧会は以下の通りである。これに加えギャラリーでのグループ展や個展などを加えると、栃木県立美術館の学芸員小勝禮子が「一種の流行現象として新聞、テレビ等で紹介された[5]」と発言している通り、この頃のジェンダーを扱った展覧会は途切れることがなかった。展覧会では描かれる女性ではなく描く主体としての女性たちが、東京中心ではなく各地で観ることができる。また小勝は主要な展覧会の担当学芸員は、ほとんど女性だとも指摘している[5]。
年 | 月 | 年 | 月 | タイトル | 開催地 | 担当 |
1990 | 3 | 1990 | 4 | 館蔵品に見る日本の女性図 | 奈良県立美術館 | |
1990 | 4 | 1990 | 4 | 女性のまなざし 日本とドイツの女性写真家たち | 川崎市市民ミュージアム | |
1990 | 6 | 1990 | 6 | 「上島千恵子を悼む女性画家たち」展 | ストライプハウス美術館 | |
1990 | 8 | 1991 | 6 | ワシントン女性芸術美術館展:女性がつくった美の系譜(巡回) | Bunkamuraザ・ミュージアム、神奈川県立近代美術館鎌倉館、大丸ミュージアム・梅田、ひろしま美術館、松坂屋美術館 | |
1991 | 4 | 1991 | 9 | アバカノヴィッチ展:ポーランドの女性作家/記憶・沈黙・いのち(巡回) | セゾン美術館、滋賀県立近代美術館、水戸芸術館現代美術ギャラリー | |
1991 | 6 | 1991 | 8 | 私という未知へ向かって : 現代女性セルフ・ポートレイト | 東京都写真美術館 | 笠原美智子 |
1991 | 7 | 1991 | 10 | ザ・サイレント・パッション、日本の女性アーティストたち | 栃木県立美術館 | |
1991 | 11 | 1991 | 11 | エマ・ボーマン展:ウィーンが生んだ女性版画家 | 有楽町アート・フォーラム | |
1993 | 8 | 1993 | 9 | 現代の女性画家 | 山種美術館 | |
1994 | 5 | 1994 | 6 | 生と性:女性が描く女性像 | 大阪府立現代美術センター | |
1995 | 7 | 1995 | 7 | よこはまの作家たち''95 女性・12の表現 | 横浜市民ギャラリー | |
1995 | 8 | 1995 | 9 | モードと諷刺、時代を照らす衣服 | 栃木県立美術館 | 小勝禮子 |
1995 | 9 | 1995 | 10 | 辰野登恵子1986-1995 | 東京国立近代美術館 | |
1995 | 9 | 1995 | 11 | 絵のなかの女たち | 群馬県立美術館 | |
1996 | 8 | 1997 | 1 | パリの女性画家とその仲間たち展:愛と葛藤そして友情(巡回) | 下関市立美術館、近鉄アート館、愛媛県立美術館 | |
1996 | 9 | 1996 | 10 | ジェンダー-記憶の淵から | 東京都写真美術館 | 笠原美智子 |
1996 | 9 | 1996 | 10 | Female Identity - 女はどう表現されてきたのか | 岡山県立美術館 | 福冨幸 |
1996 | 12 | 1997 | 1 | 女性の肖像 - 日本現代美術の顔 | 渋谷区松濤美術館 | 光田由里 |
1997 | 1 | 1997 | 9 | ベッティナ・ランス展:世界を刺激する女性写真家(巡回) | 小田急美術館、近鉄アート館 | |
1997 | 2 | 1997 | 3 | サラ・ムーン展:幻想のイメージを紡ぐ女性写真家 | ナビオ美術館 | |
1997 | 2 | 1997 | 2 | デ・ジェンダリズム - 回帰する身体 | 世田谷美術館 | 長谷川祐子 |
1997 | 2 | 1997 | 3 | アジア現代作家シリーズ ハン・ティ・ファム展 ベトナム×アメリカ~わが身を奪還せよ! | 福岡市美術館 | 黒田雷児 |
1997 | 4 | 1997 | 6 | しなやかな共生 | 水戸芸術館 | 逢坂恵理子 |
1997 | 5 | 1997 | 7 | いまどきの美術4 収蔵品にみる女性作家とその作品 | 斎藤記念川口現代美術館 | |
1997 | 7 | 1997 | 9 | 揺れる女/揺らぐイメージ - フェミニズムの誕生から現代まで | 栃木県立美術館 | 小勝禮子 |
1997 | 7 | 1997 | 10 | 神奈川の女性画家たち展:所蔵品による | 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 | |
1998 | 4 | 1999 | 3 | リアル/ライフ、イギリスの新しい美術(巡回) | 東京都現代美術館、栃木県立美術館、福岡市美術館、広島市現代美術館、芦屋市立美術博物館 | 杉村浩哉、他 |
1998 | 8 | 1998 | 9 | ファミリー美術館''98 桂ゆきの世界:絵画とコラージュにみる女性画家のまなざし | 茨城県近代美術館 | |
1998 | 8 | 1998 | 10 | 山下りんとその時代展:日本~ロシア/明治を生きた女性イコン画家(巡回) | 北海道立函館美術館、豊橋市美術博物館 | |
1998 | 8 | 1998 | 10 | カルメン・コレクション展:情熱の女性コレクター/風景画の輝き/印象派を中心に | 東京都美術館 | |
1998 | 10 | 1999 | 1 | 女性画家が描く日本の女性たち展:松園、小坡、蕉園、成園、緋佐子の美人画(巡回) | 奈良そごう美術館、小田急美術館 | |
1998 | 11 | 1999 | 1 | ラブズ・ボディ - ヌード写真の近現代 | 東京都写真美術館 | 笠原美智子 |
1998 | 12 | 1999 | 2 | コレクションによる物語る美術I:アンソロジー<本、死、モード、ジェンダー> | 栃木県立美術館 | |
1999 | 1 | 1999 | 6 | 身体のロゴス −ドイツからの14人の女性アーティストたち(巡回) | 国立国際美術館、栃木県立美術館 | |
1999 | 4 | 1999 | 5 | 「女たち/国境を越えて」展:木箱×世界23カ国×女性作家200人。 | 天竜市立秋野不矩美術館 | |
1999 | 4 | 1999 | 11 | 身体の夢:ファッションOR見えないコルセット(共催) | 京都国立近代美術館、東京都現代美術館 | |
1999 | 7 | 1999 | 9 | メディテーション、真昼の瞑想:80-90年代の日本の美術 | 栃木県立美術館 | 小勝禮子 |
西洋美術史学における「三田・小勝論争」
[編集]日本でも1980年代に多くのジェンダーを扱う作品が制作され論文が印刷されることで、1990年代後半には活発になりつつあった日本のフェミニズム思想であったが、その一方で、90年代にジェンダーの視点を持った展覧会が数多く企画されたことへのバックラッシュと考えられる批判が、美術系の雑誌『LR(Live and Review)』の誌上で始まり、『美術手帖』での座談会や『攪乱分子@境界―アート・アクティヴィズム』誌上で分析されるなど多誌に飛び火した。
『LR』3号・三田からの問題提起
[編集]毎日新聞学芸部の記者三田晴夫が雑誌『LR』3号で、「フェミニズム、ジェンダリズム、エコロジー、多文化主義、身体論、ポリティカル・コレクトネス」は「理解の得られやすい西洋の思想の借り物」であり必然性が感じられないと揶揄し、フェミニズムに関する展覧会名を誤記しながら羅列している[6]。これと平行して行われていた美術誌『あいだEXTRA』での稲賀繁美と千野香織との応酬も含め、日本の美術界では一般的に「ジェンダー論争」と呼ばれてる[7]。
社会的・文化的差異の解消をめざすフェミニズムやジェンダリズム、自然や生態系破壊に抗するエコロジー、民族間の相互依存を理念とする多文化主義、揺らぐアイデンティティの最終根拠としての身体論。あるいは、もろもろの社会矛盾に異議を申し立てるポリティカル・コレクトネス(政治的正義)ー。なるほど差し迫った社会現実を抱えていなくとも、共有しようと思えば、これほど普遍的な理解の得られやすい思想や知もないだろう。(中略)美術館もその尻馬に乗って、こららの借り物を使った展覧会を打ち続けたのである。(中略)
輸入された思想や知を離れては何一つ自前の評言を吐けない評論家はもとより、何一つ自前の表現論を作り出せない作家もまた同類である。 — 三田晴夫、「状況考(3)借り物の思想・知・主題をめぐって」」『LR 美術批評』3号、1997年8月
『LR』6号・小勝からの応答
[編集]翌年の『LR』6号で、栃木県立美術館の学芸員小勝禮子は、三田が主張する「「普遍的な理解の得られやすい」欧米の思想に「差し迫った社会現実を抱えていない」日本の美術館やアーティストらが乗っかっただけの展覧会が相次いでいる」という論に、各展覧会を擁護しながら自身が企画した展覧会の構成を具体的な回答として反論した。ただし小勝はジェンダーを扱う展覧会のすべてを擁護したわけではなく、『デ・ジェンダリズム』(世田谷美術館、企画:長谷川祐子)に関しては「ジェンダーを超えたエリートとしての「超人」の出現を希求しているようにみえた」としてジェンダー思想を持った展覧会だと評価していない[8]。
過去の美術がその時代の政治的・社会的環境の中で生み出され、その評価は時代に応じて変転したことに理解が及べば、芸術の価値の「普遍性」に対して疑問が生じるであろうし、芸術が社会から独立した絶対の存在であるという「芸術至上主義」(モダニズム美術史観)が、観念だけの産物であることに思い至るはずである。こうした芸術の絶対的評価に対する異議申立ては、フェミニズム美術史を含む、新しい美術史学の重要な成果であった。 — 小勝禮子、「『美術とジェンダー』の現在―『揺れる女/揺らぐイメージ』展をめぐって」、『LR 美術批評/展覧会批評誌〈エル・アール〉』6号、1998年2月
『LR』7号・三田からの「美と正義」の再批判
[編集]三田がこの号につけたタイトル『美術と正義をめぐって』の「美術」と「正義」は、「普遍的な美」と「社会的正義」についての考察だと読むことができる。「欧米のジェンダー思想は必然」だと考えている三田は、「ジェンダー思想そのものに対する敵対者ではない」と念をおしながらも、日本に昔から性差があるなら、最近になって急にジェンダー関連の展覧会が増えるのはおかしい、「ジェンダー思想が欧米から入ってきたからジェンダーの差異を認識しただけでは無いのか」と理由づけ、日本の女性学芸員たちが企画したジェンダー関連の展覧会が、小勝のいう「切迫した現実」に根ざしていない論拠とした。そのため当初の自分の見解に修正を加える気にならない、またジェンダーという主題は美術を窮屈にしてしまうことを懸念していると、愛煙家でもある三田は嫌煙家たちの振る舞いを例にあげながら再批判している[9]。
禁煙法が制定されたわけでもないのに、不可侵の善にして正義であるということが暗黙のうちに是認される(中略) 世界のどこにも理由のない悪や不正義が存在しないように、無条件の善や正義もありえないという内容が、なぜかここからは抜け落ちてしまっている。 — 三田晴夫、「状況考〈6〉美術と正義をめぐって」『LR 美術批評/展覧会批評誌〈エル・アール〉』7号、1998年5月、pp.22-25
『LR』8号・若桑および小勝から三田への応答
[編集]小勝に加え美術史家の若桑みどりが、三田に対して応答を始めた。ジェンダー展が「切迫した現実に根ざしていない」と三田が書く時の主語は、大手新聞社で日本のアートシーンに絶大な「権力」を振るう男性である。三田が「左翼的」だとしても「権力」の側であると指摘した。つまり日本のジェンダー思想が「現実に根ざしていない」のではなく、三田自身が「現実が見えていない」のである[10]。
三田が「欧米のジェンダーは神や共産主義の「かわりに」またはその超克としてうまれた」から、欧米のジェンダー思想は必然だと述べたのは、誤認または無知であると若桑は指摘した。なぜならジェンダー思想は、マルクス主義の歴史観や階級観の「上に」築かれたものだからだ。マルクス主義は社会の矛盾を階級間においたが、ジェンダーはそれに性の概念も加えている[10]。
ただし「フェミニズム・アートは社会を反映しただけの作品」との批判を避けるために『LR』10号で小勝は、「フェミニズム美術批評には確かにマルクス主義理論から進展したものがあるが、マルクス主義の限界を無批判に継承しているわけではない」、つまりマルクス主義フェミニズムだけではないと語っている[11]。
男性の性的視線で想像され展示されてきた「美」を「人類」にとっての普遍的な美だと信じてきた男性には、「もう一つの」「美・醜」の基準が存在することが許容できない。その恐怖が「ジェンダーが美術を抑圧する無条件の正義となる」という被害妄想になる。 実際には、男性の視線が無条件の正義として通用している現実の状況には気づいていない。 — 若桑みどり、「三田晴夫「美術と正義をめぐって」に対する反論 ジェンダー美術展の意義」『LR アート・マガジン〈エル・アール〉』8号、1998年7月、pp.64-69
小勝も若桑と同じ『LR』8号に三田への再反論を寄稿した。この号で小勝は、三田が個々の展覧会に立ち入ることなく「ジェンダー展と十把ひとからげに切り捨てる」姿勢と普遍的な美の存在を疑わないモダニズム的価値観を批判している。また、小勝は若桑の論に大筋で同意しているが、若桑が「美術館行政のトップに立ったこともなく、批評界で実権を握ったこともなく、多くの場合、美術館の内部でさえも、企画の段階からその固有の意思を、しばしば数の多い男性同僚(もちろん、数としての女性学芸員はいたが、その意識が男性側にあったとすれば、彼女らはジェンダー「文化的性」としては男性に属している)、上司によって封殺されてきた「女性」学芸員」が「権力から程遠い」と規定していることについては、「自分の有する小さな権力(展覧会で言えば、テーマを設定して、作家、作品を選ぶこと)には自覚的であらねばならい」と、守られる弱者に身を置かないためにも、自身で反論をしたと告白している[12]。
既得権(喫煙・男性優位、両者はイコールではない)を制限されることへの不快が語られるが、それまで我慢を強いられてきた人々(非喫煙者・女性やマイノリティ、ここでも両者はイコールではない)の不快感への想像力は微塵もない。一方、稲賀氏は「多声を容認する公共空間を確保する」(マイノリティに発言権を与えるー引用者注)ためには、「別種の抑圧機構」が不可欠だと男性する。 なぜ彼らは、異なる価値観を持つ人々の共生を、てんから否定するのだろうか。「分煙」という発想がないのだろうか。 — 小勝禮子、「抑圧の論理をめぐって 三田氏に対する再反論―再びジェンダーと美術について」、『LR アート・マガジン〈エル・アール〉』8号、1998年7月、pp.70-76
小勝はその他に、後述する日本美術史でのジェンダー論争のきっかけとなった東京国立文化財研究所が主催したシンポジウム『今、日本の美術史をふりかえる』(1997年12月、会場:東京国立近代美術館)での稲賀繁美(国際日本文化研究センター研究部)と小川裕允による千野香織への批判についても言及している。
私が極めて異様に感じたのは、千野氏以外のパネリストによる既存の評価基準の見直しに対しては、寛容に解説して止まない稲賀氏が、千野氏のジェンダー研究に対してだけ、豹変したように牙をむく態度である。その言説は三田氏の主張する「ジェンダーの思想が正義となって美術を抑圧する」というのと同じ不快感を、より複雑で迂遠な論理を装って、表明しているように読める。 — 小勝禮子、「抑圧の論理をめぐって 三田氏に対する再反論―再びジェンダーと美術について」、『LR アート・マガジン〈エル・アール〉』8号、1998年7月、pp.70-76
『LR』9号・三田から「反映論・党派性」との批判
[編集]三田からの再反論は一変して「一つの主題をたどって持続的かつ論理的に思考を展開していくのは不得意で、徒労感がつのりはじめた」と弱音から始まり、終始して自分は不用意に攻撃された被害者であるような文体となった。三田の一連の主張は主題がジェンダーであってなくても(エコロジーや身体、ポリティカル・コレクトネスでも)構わなかった、つまりこの論争は三田の論旨を小勝・若桑らが読み違えた「男と女の容易には解き得ないアポリア」であるという。そのように徒労感を見せる一方で、「反映論」「党派性」という語を本文中に何度も使い、フェミニズム思想の意味付けや揶揄をしようという意図もみれた[13]。
現実社会における認識の正当性を、そのまま芸術領域における表現や批判の正当性に短絡してしまうような反映論は、とっくの昔に精算されたものと理解していたからだ。(政治主義文学を駆逐した吉本隆明の労作『言語にとって美とはなにか』が世に出て、もう30年以上になる)。だが、ことジェンターに関しては、そうは問屋がおろさなかったようである。 — 三田晴夫、「状況考〈8〉反映論と党派性をめぐって」『LR アート・マガジン〈エル・アール〉』9号、1998年9月、pp.6-11
そして三田は「正しいフェミニズム」よりも「個の自発性を優先」しているだけなので「現実が見えていないほど目が悪いわけではない」と当初の持論を維持する意向をみせた。加えて、三田より小勝の方が権力があると、若桑からの批判をかわした。三田に権力がない理由としては「新聞文化面に美術記事を書いているだけ」であり、ひるがえって美術館学芸員の小勝は「作家や画廊人に<絶大な>権力」が行使できると主張した[13]。小勝が指摘した「三田の視点はロジャー・フライやクレメント・グリンバーグらのモダニズム理論(男性主義的なもの)を引き継いでいる」という指摘には、読んだこともないので見当違いだとしている。締めくくりとして三田は「ジェンダー論嫌悪」に関心をいだいたこともなく、純粋に「美術の自律性」を懸念しているのであり、小勝・若桑らの三田への批判は「党派的な心情に満ち満ちた乱暴な物言いというほかない」と吐露している[13]。
<社会の現実>を優先する反映論や党派性の理論によって、個の自発性に根ざした美術が締め上げられ、無残にも枯死していくような忌まわしい歴史を二度と繰り返さないことである。本当にジェンダー=フェミニズム美学とその運動は、こうした歴史上の集団的理念の亡霊とは手を断ち切ろうとしているのか。 — 三田晴夫、「状況考〈8〉反映論と党派性をめぐって」『LR アート・マガジン〈エル・アール〉』9号、1998年9月、pp.6-11
『LR』10号・小勝からの「フェミニズム美術批評」の手ほどき
[編集]平行線の議論を仕切り直すように小勝は、基本的なフェミニズム美術批評の方法論の手ほどきを始めた[11]。
前提としてフェミニズムの批評の歴史には3つの段階があり、現在のジェンダー美術批評は3つめの作業に取り掛かっているという。
- 美術史の中に埋もれた女性作家を再発見し、再評価する作業
- 先駆的研究にはリンダ・ノックリン『なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか』(1971)がある
- 問題点として、男性中心の美術史の中で再評価しても「片隅の二流画家」として編入されるにすぎない
- 美術の中の女性像がいかに男性の視線に奉仕するものとして描かれて来たかを問い直す作業
- 問題点として、描かれた女性像の見直し作業は「女性差別の告発」として「男性」の感情的反発を招く(三田からの批判もこれに該当する)
- 性差に基づく社会的構造や美術史の枠組み自体まで、ジェンダーによる問い直しを拡大する作業
- 社会構造まで問い直すことで、従来のモダニズム美術史が打ち立てた特権的創造者としての「芸術家」の地位や、超越的・普遍的な「美」が存在するという信仰が揺さぶられる
- そして芸術作品も「(男の)天才のひらめきによる創造」ではなく、資本主義社会の経済原則に支配される社会活動の一つとして、冷静に認識されるものだと主張できる
以上のような手ほどきをした上で、小勝は第二段階にある感情的な反発を三田はしているのではないかと指摘し、現在取り組んでいる第三段の作業の理解を促している。
三田がフェミニズムを「党派性」と揶揄している件については、たしかに小勝はフェミニズム理論という新しいイデオロギーのもとで発言していると認め、そうであるなら、揶揄する側の三田が主張する「美術の自律性」や「個の自発性」の前提条件である「美術の基準」もまた美術の「質」を絶対視するイデオロギーであり、モダニズム批評の方法論であると指摘している。作品というもは、おのずと意味が内包される種類のものではなく、観客の社会的・時間的・身体的な視線からその意味が変化する揺らぎのある不安定なものなので、三田には柔軟な好奇心と新しい知識を学ぶ姿勢を見せてほしいと締めくくった[11]。
『LR』12号・三田からの総括
[編集]「総括」としたこの号で三田は、文体を「H」と「S」との座談会形式に変えている。執筆者は三田一人であるので、実際には座談会ではなく創作であり、HおよびSは三田晴夫の「Haruo」「Santa」の頭文字だと考えられる。書き出しから「日頃の行状が悪いせいか、厄介な論争に巻き込まれて一年が過ぎた」とあたかも三田が被害者であるような印象づけをしている。
文体の「~じゃないの/~だね」といった口語体は、「(感性には自信があるが)無学な三田が、学のある小勝らに不当に非難されている」という被害者としての三田を補強する役割りを担っていると考えられる。この号は『LR』9号で見せた徒労感は消え、滑舌良くジェンダー理論や作品群についての批判をしている。
言葉で伝えればすむことを、言葉以下にしか伝えられない低俗な絵解き作品なぞ最初から論外であり(中略)僕らがいま語りあっているのは、高踏的な理論や学説など必要のない美術の実施に即した問題だ。(中略)年相応の人間的想像力だけは身に付けたつもりだ。(中略)この論争中に僕が驚いたのは、優秀な知力を持つ人が必ずしも同等の想像力を持つとは限らない(中略)人間理解や人間認識の意外なほどの浅薄さには、何度となく驚かされたものな。
— 三田晴夫、「状況考〈9〉観念性と肉体性をめぐって―ジェンダー論争の極私的総括」『LR アート・マガジン〈エル・アール〉』12号、1999年3月、pp.6-11
この『LR』での一連の論争は他の雑誌でも取り上げられた。三田は、それらの内容に対して評価をする一方、ジェンダー理論に賛同するような発言には不満を示した。またジェンダー関連の展覧会である『ラブズ・ボディ』(東京都写真美術館、企画:笠原美智子)展が、朝日新聞の98年のベスト5の展覧会で5人のうち4人の選者から名前を上げられたことに関して「ジェンダー理論について批判することのタブー化」からだと分析した。よって理論だけで作品そのものの「質」に触れていないとしている。三田は毎日新聞で『ラブズ・ボディ』について批判したことも付け加えている。
三田は、そういったジェンダー理論の「権力的な作用に懸念を抱いているからこそ、重層的に問題の是非を問うべきと判断して、批判している」と決意表明をしている。これは「主題がジェンダーでなくても良かったのに」という趣旨との矛盾である。また「展覧会を順位付けする新聞社(の権力)」は、「新聞社で記事を書いてるだけ(で権力はない)」という主張とも矛盾している。
三田自身が行った総評は、「ジェンダー理論のような党派的な抑圧には、そうなるだけの必然がそもそもの出発点から内包されていた、今のうちに改めるべきことは改めよ」であった。また、「ジェンダー論の教条主義的な反映論の蒸し返しや、啓発運動の閉じられた党派的側面」は、反論の余地がないのに、小勝らが反論するのは、逆説的に三田の指摘が「核心的」だったからではないのかと、自身の論を高く評価している。
『LR』16号・笠原へのインタビュー
[編集]三田が『LR』12号でした総括に対し、小勝はそれ以上の反論を『LR』誌上で行わなかった。代わって『LR』編集長の山本育夫が三田の「味方のつもり」で、三田が毎日新聞上で酷評した『ラブズ・ボディ』(東京都写真美術館)の企画者である学芸員の笠原美智子にインタビューをした。山本は三田の味方とは言っているが、三田の主張を通すというよりは、ジェンダー理論とダニズム理論は「合わせ鏡」「仲間」「両方とも党派性を持っていることに自覚的になることが大切」という語を使い、どっちもどっち論に収めようとしている。
笠原は、三田の主旨は、フェミニズム・アートは「党派性」であり「作品の質が劣る」につきると分析した。党派性に関しては小勝・若桑らと同じく、権力の側にいる三田自身の党派性について自覚してほしいと促している。加えてアート業界でフェミニズム関連の展覧会が増えたとはいえ、その思想が社会に影響を及ぼすに至ってない現状では「党派性」とはいえないのではないかとも付け加えている。
展覧会を酷評された「作品の質」問題では、『ラブズ・ボディ』に出品しているアーティストは、岡田裕子とリン・ビアンキの2名を除き、フェミニズムというカテゴリーではなく、既にアート業界で評価の定まったアーティストから選定したので、三田が「質が低い」「平均以下」と感じるなら、三田の基準がどこにあったのか自ら問い直してみてほしいと促した。そして三田の「質」の基準は、三田が評価しているアーティストたちは、すべてモダニズム理論から出てきた作品から見えることも指摘している。つまり「党派性」も「作品の質」もフェミニズム側に問うのではなく、自らの社会的・歴史的な立場を顧みるべきだとの応答である。
また笠原はフェミニズム思想は生物学的な男女に関係ないことも指摘している。女性であってもフェミニズムの視点を持たない場合もある。例として、蜷川実花が朝日新聞に「私は私で、自然なこととしてやったつもりなのに、『女性の視点』で撮られたとみられて嫌だった、普通に写真をみてほしかった」という旨の発言を掲載したことを挙げている。「中庸な視点」というものはなく、「中庸な視点がある」ことをモダニズムは「仮定」してきた。今まで多くの展覧会を見て、視点の社会背景を学んできたはずの蜷川実花でさえ、モダニズム的思想で「(女性ではなく)人間としてのアーティストとして見てほしい」とフィクションのを信じて発言していると指摘している。
補足・三田のフェミニズムやそれ以外のへ「借り物」という批判の手法
[編集]論争の発端となった『LR』3号で、三田は「フェミニズム、ジェンダリズム、エコロジー、多文化主義、身体論、ポリティカル・コレクトネス」について「借り物の思想」だと言及し、その後、『LR』9号ではフェミニズムではなく他の主題でも良かったと発言している。
三田は、たとえ話と断った上で「欧米で学んだ理論で、日本で従軍慰安婦や残留孤児をリサーチし作品を発表しても、批評家や美術ファンからの反応はないだろう。なぜならその作品は「批判できないような正義性」を持っているからだ」といった話をした。三田の批判する、多文化主義などの「批判できない正義」を持つ「西洋」からの借り物の思想という言葉の向こうには、オリジナルな「日本文化」という概念がある。
つまり、借りていないオリジナルな思想の拠り所を、三田は国家に求めている。三田が問う、思想が「どこから生まれたのか」という自出の問題を、北原恵は『攪乱分子@境界―アート・アクティヴィズム 2』 1999年12月、pp.172-194で、「私たち独自の日本文化」といったものは「近代以降の「日本美術史」というジャンルの構築」と切り離せないと指摘し、酒井直樹の『序論ーナショナリティと母(国)語の政治』を引用しながら、ならば、文化を国民共同体の内部に偏在させることはやめて、民族文化の文化観を疑い、行動様式の文化を考えようと提言している。また、イメージ&ジェンダー研究会の座談会では以下のような三田へのナショナリズムに関する指摘がされている。
「借り物」という言葉は、既存の体制に異議を申し立てる者を、特定の共同体から排除する、「日本」の外に押し出す。同時に、排除することで、自分を含んだ既得権をもつ者たちのまとまりや「日本」のアイデンティティを作り、強化するものじゃない? — イメージ&ジェンダー研究会、「座談会-「ジェンダー論争」を考える」『イメージ&ジェンダー 』vol.1号、1999年12月15日、pp.67-71
日本美術史学における「稲賀・若桑論争」
[編集]月刊『あいだEXTRA』25号、稲賀から千野へ不快感の表明
[編集]1998年1月20日発売の『あいだ EXTRA』25号で国際日本文化研究センターの稲賀繁美は、1997年12月3日から5日にかけて行われた第21回文化財の保存に関する国際研究集会『今,日本の美術史学をふりかえる』に関するレポート『「今,日本の美術史学をふりかえる」を聞いて』を寄稿した。内容は稲賀がメモを取りながら聞いたという研究会のまとめ的なものだったが、研究会の第三セッション「語る現在、語られる過去」で発表した学習院大学の千野香織『日本の美術史言説におけるジェンダー研究の重要性』の発表に対しては、千葉の論文『天皇の母のための絵画―南禅寺大方丈の障壁画をめぐって』に対するレビューではなく、レジュメに対する批判文であった。
千野の論文内容は、これまで日本の美術史研究では問われなかった障壁画における建築の影響を考察し、さらにその空間を使用する権力者としての正親町天皇とその母まで検証範囲にいれたものだった。つまり、今まで見落とされがちだった「母(女)」への言及がされていた。
発表にあたって千葉は、「現在の日本の美術史研究の状況が息苦しいと感じている人々に向けてのひとつのメッセージ。私たちが自らの時代の学問を行おうとするなら、階級または身分、人種または民族、そして何よりジェンダーの問題に無関心ではいられない。今回はジェンダーの問題を取り扱うことで異性愛男性の価値観で作られてきた「普遍的」な「主流」の美術史に疑問を付け、美術史のヒエラルキーを無効化し、新たな学問の可能性を切り開いていこうとするもの」という旨をレジュメの冒頭に書いた。
それを受けて稲賀は、千葉が掲げたジェンダー的な視点について「(政治的な正しさはさしおいて)いままで男性中心でやってこれたならそれは歴史的な正しさの証拠になるし、自分も「息苦しさ」を感じることがあるが、それは千野のいうようなジェンダー的なものに由来していない。ジェンダーが声をあげればそれ以外が抑圧されてしまう、ということはジェンダーだけが声を上げる権利とはならない」というような、言葉を反転させて発言を封じる論法や「ジェンダー・コンシャス/ジェンダー・ミリタント」という独自の分類分けをしながらフェミニズムを分割させようと試みるなど、ジェンダー理論を他の発表のまとめとは違って1ページ半の長さを用いて批判している。
「美術史学」が「異性愛者男性」の「価値観」に無批判に迎合してきたとすれば、それは男性支配が(善悪はとにかく)「主流」な公的秩序を司ってきた証拠にすぎず、それを「間違い」と断ずるのは(「政治的」には「正しい」判断たり得ようが)歴史認識としてはかえって「間違い」ともなろう。(中略)既存の定説の権威を疑問に付すのは、ひとりジェンダー論のみの特権ではない。(中略)
一見ものわかりよく、被抑圧者に理解と道場を示すジェンダー的良心の誇示に「息苦しさ」を覚えるような「男性的」な「価値観」は、なお「無効化」されるべき、「間違った」存在でしかないのだろうか。「息苦しさ」の「半分」を解消する解放の原理が、別種の抑圧と無縁たりうる保証はあるのか。 — 稲賀繁美、「『今、日本美術史学をふりかえる』を聞いて」、月刊『あいだEXTRA』25号、1998年1月、pp.2-15
月刊『あいだEXTRA』29号、若桑から稲賀への応答
[編集]1998年5月発売の月刊『あいだEXTRA』29号で、若桑みどりは稲賀から批判された千野を擁護するように『ジェンダーの視点にたつ美術史をめぐる「男性」の言説について:稲賀繁美氏の「『今、日本美術史学をふりかえる』を聞いて」を読んで』を寄稿した。
若桑は稲賀に対し、男性中心思想に基づくバッシングは日本における歴史学の動向への認識の遅れを露呈するだけである、美術史家の真価は論文にあるのだから、稲賀は千野の論文をその手法とともに論評すべきではないのかと批判した。レジュメのバッシングは学問的なことではないので、美術史学のレベルでお互いの立場を理解すべく討論すべきであると説いた。
若桑は、千野の論文『天皇の母のための絵画―南禅寺大方丈の障壁画をめぐって』は、今まで日本美術史の主流であった様式論的視点では明らかにされなかった作品をめぐる社会的関係や意図などの立体的な「生産と消費のシステム」が再構築されており、この方法論によって文化の作り手としての女性(最高位の為政者の「母」という文化的・社会的活動を再構成する上で重要なこと)が視覚化され、それが主題や様式に作用したこと等々がわかってきたと論文の内容を説明している。
稲賀はまた、グリゼルダ・ボロックの『視線と差異』の要約をしながら、原著の副題の『複数の美術誌 Histories Of Art』とは美術史における唯一絶対の範的価値は存在しないこと、いくつもの価値観が存在しうることだと説明をした。つまり、千野の発言は、男性的視点に「代わって」女性的視点にたった言説を専制しようという宣言ではないことを説いている。
同時に若桑は、稲賀の千野批判は、千野の発言を読み違えているとの指摘もしている。
- 千野は「ジェンダーを唯一絶対の価値観として権威にしよう(ジェンダー特権)」とは言っていない
- 千野は「唯一絶対だと息われている価値観を崩したい、その崩しのためにジェンダーの視点が有効ですよ」と言っている
- 千野は(千野はジェンダーの視点を持ったが)「ジェンダーだけでなく、現在の男性同国人の体制で作られている文化システムから排除されたり周縁化されているすべての他者の視点が「脱構築」として有効だ」と言っている
- 日本美術史の状況に「稲賀も息苦しさを感じている」という理由で、千野のジェンダー視点の息苦しさは「理論的に間違っている」と論を展開するのは、それこそ理論的におかしい
- 文化的な視点は一つではない。ジェンダーだけでなく、年齢、社会階層、人種などさまざまな立場で見え方は異なる
- 千野は「今までの歴史は間違い」とは言っていない
- 千野は一部男性の眼で記述されてきた言説を「普遍的」「主流」として信仰してきた自己を反省し、「一方的な言説を信じていた自己」を間違いだったと言っている
- 「男性の価値観で選ばれて記述されてきた美術史学に、これからは千野(女性)自身の視点をもって研究する」と言っている
- 千野は「美術史学という主体があって、その主体が男性の価値観に迎合した」とは言っていない
- 稲賀は大文字の「美術史学」という主語を用いているが、その概念こそ存在しない
- ジェンダー史観とは、過去の歴史の中に男女の権力関係を歴史学的・社会学的、文化的に再構築する歴史観であって、「善悪」「正誤」を問題にする学問ではない
以上のことから、稲賀はジェンダー史観を「過去の男性支配を否定し、誤謬として告発する政治的イデオロギー」だと確信して深読みをしたのだろうとくくっている。
非人称の、非階層的な、非性的な、非人種的ないわば超人間的な、いかなる美術史学も存在しない。そこにはある時代ある社会のなかのある階層に属する、あるイデオロギーをもった、一定のセクシュアリティーをもった「美術史家』たちとその集団、その権威、組織があるだけだ。 — 若桑みどり、「ジェンダーの視点にたつ美術史をめぐる「男性」の言説について:稲賀繁美氏の「『今、日本美術史学をふりかえる』を聞いて」を読んで」月刊『あいだEXTRA』29号、1998年5月、pp.5-10
月刊『あいだEXTRA』30号、稲賀からの千野・若桑への再批判
[編集]稲賀は、若桑への応答を手紙形式とした。今まで使っていた「である」調から、批評誌ではあまり使われない「ですます」調で、へりくだった文を作っている。また自身の肩書を「国際日本文化研究センター研究部」から「美術と美術館のあいだを考える会一般会員/イメージ&ジェンダー研究会泡沫会員」と変更している。「美術と美術館のあいだを考える会一般会員」と書いているのは、前号で若桑が冒頭に「美術と美術館のあいだを考える会」に賛同していると述べていることへの応答であり、若桑も所属する「イメージ&ジェンダー研究会」に自分も所属していることを「泡沫会員」として表明している。「イメージ&ジェンダー研究会」の会員にランクはないことから卑下の効果を狙っているとみられる。自身の肩書(立場)を変えてまでのへりくだりの態度を見せるのは、論争には関係のないもので、この書き方は日常で相手を小馬鹿にする効用を狙って使うものである。稲賀はとりたてて反論も持論の展開もせずに、最初の1ページをまるまるへりくだりに割いている。へりくだることで他者を小馬鹿にする文体は、反論を展開する最後まで貫かれている。
へりくだりながら小馬鹿にする文体の例としては、タイトルの『鯛を太らせる蝦、あるいは蟷螂の鎌の駄弁:若桑みどり様へ』からも見て取れるように、若桑に「様」をつける。また「エビで鯛を釣る」の諺は「小さな元手で大きな利益を得る」という意味であるから、小さな稲賀の論文が、若桑やフェミニズムの思想である鯛を「太らせる」との諷喩(アレゴリー)である。「蟷螂の鎌」も小さなカマキリが大きく勝ち目の無いものに立ち向かうという意味の諺である。そうして自分を小さなものと定義し、自身の執筆した文を「作文」と表現し、若桑のかつての批評文を褒め称える。
また使う語も研究会においての論争であるのに、自分の理論の構成力を「戦闘能力」と表現し、反論をする前おきに「論争を慎むのがこの国の仕来たり」と書き、批判しながら「いらぬ老婆心ながら」と付け足し、反論文の文末にカッコ書きで「(やや徒労感を覚ゆ)」と読者に向けて同情を乞うような心情を書き込むなど、内輪向けの文章の構成を作っている。
小生としては弁解がましい行いは、あるいは慎むのが、この国の仕来りかもしれません。(中略)上下関係のうえからも、「千野先生」、「若桑先生」とお呼びすべき筋合いかもしれませんがー — 稲賀繁美、「鯛を太らせる蝦、あるいは蟷螂の鎌の駄弁:若桑みどり様へ」月刊『あいだEXTRA』30号、1998年6月、pp.5-10
これが「日本の美術史学」の研究会から派生した批判への、印刷され一般書店で発売される書籍に載せた、研究者としての稲賀の応答である。北原恵は、江原由美子『女性解放という思想』の「からかいの政治学」を引用し、稲賀のへりくだった文体と論法を『からかい』と定義している。稲賀の文体は若桑を権威者に仕立て上げ、「権威」をからかう。その場にいるもの(読者)が反論をしなければ「賛同した」という雰囲気を作る。北原は、稲賀の基層にある女に対するからかいの視線も指摘している。稲賀は千野に対してはへりくだりではなく「忠告してやろう」という庇護者態度で女に対するからかいの視線を向けている。
稲賀の反論はおおよそ以下の通りである
- 稲賀が千野の論文自体に言及しなかった件について
- 稲賀が、千野の論文自体を批判しなかったのは論文がシンポジウムと別で公表され、他の専門家が既に根底的な批判をしていたからである
- レジュメの批判をしたのは、千野のレジュメは千野の論文の「実現と学術的な手続きの水準では無関係と判断したから」問題にしたのである
- ジェンダー思想を批判したのではなく、千野の立論が「甘い」と指摘しただけである
- 稲賀が「冷徹に」指摘したのは、千野が立論の「「甘い」ところを露呈しかねないので、くれぐれもご注意をと(いらぬ老婆心ながら)申し上げた」だけ、つまりジェンダーの問題とは関係なく、千野の立論の手法を指摘しただけである
- 千野のジェンダー理論は、詰めは甘いが基本的に賛同しているので、稲賀は「せめて外語で発表されるときにはご注意をという意味で」指摘してあげただけである
- 千野が「間違っていた」と発言した時の主語の誤読はしていない
- 千野が「自己が間違っていた」と発言した件については、稲賀は誤読などしておらず、「自己告白する姿勢そのものに<政治的善悪と自己論的正誤>の混線が見られる」と指摘したつもりである
- 「千野は「私が」間違っていたと認識し、視点を改めた」と若桑は書いているが、稲賀からは、千野が「私たち」という集団的共同体が共有すべき「普遍的」なメッセージを出しているようにも読んでいる
- 若桑の発言は、男女の違いといった本質論的差別やレッテル貼りを促す恐れがあり、学問的ではない
- 稲賀も若桑と同じように「大文字の美術史」への抵抗を試みているのに、「たまたま生物学的な性の配分が違うというだけの理由」で、稲賀と若桑の理解がずれるのは遺憾である
- 若桑の、美術史家を「ある時代、ある社会のなかのある階層に属するあるイデオロギーを持った一定のセクシャリティを持った集団」といった特定の階層によって下位分類する認識法は、「レッテル貼り」に悪用されかねない
- 若桑の発言は、「ジェンダー史観だけは、客観的な科学であり、善悪や正誤を問題としない」といった素朴なジェンダー史観学無謬論にも飛躍しかねない宣言である
- 若桑は、あたかも男性はすべて家父長的で、無意識的に利権意識や女性嫌悪、被害妄想を持っているというような「学問的ではない」議論をしている
- 若桑は、党派的で独善的な発言がある
- 若桑は、社会の権力関係の分析をジェンダー史観の「専有物」としている。そしてジェンダー史観に「敵対」していると判定したものを叩く。それは党派的である。
- 若桑が、「美術史学のレベル」という言葉でジェンダー史観を正当化するのは独善である
- 稲賀は『あいだEXTRA』からの「無料」の寄稿依頼に応えただけなのに、「あれほど巨大な字で印刷され」、ジェンダー美術史への攻撃やバッシングというような読み替えに利用され、「生物学的再決定論」に格好の口実を提供するような甘さを見せてしまったと暗澹としなければいけないのか
- 若桑の発言からは、「日本の歴史学の動向への認識の遅れを露呈する」といった輸入性善説や、「女性にはこう見える」といった専制的な本質論的視覚性別差異論といった、「反ジェンダー論的価値観」が見れる
月刊『あいだ』33号、若桑から稲賀への応答
[編集]若桑はこの号で論争を打ち切っている。打ち切り理由を、稲賀が前号で書いた「建設的な応酬が不可能な時点で口を噤むべき」に賛同するからだとした。たとえ稲賀が丁寧で「慇懃な修辞学にくるまれ」た文章を構成していたとしても、その内容は無礼な言葉尻の応酬で、不毛な罵り合いにしかならず、「後世の歴史家が参照して無意味ではないだけの意義と水準をめざす」ことは無理ではないか、そうなった責任の半分は若桑自身にあるから論争を打ち切るとしている。文章も簡潔で、稲賀の6ページにわたる批判文に対し、若桑は1ページと少しの文章で応答している。
- 若桑は「ジェンダー史観学無謬論」(ジェンダー史観は一つであり、誤りがないとする考え)に立っていない
- ジェンダー史学は数多い歴史的視点の一つであり、カルチュラル・スタディーズのような複合した視点を内包するものである
- ただその場合でも、個々の歴史家の視点が問題の立て方やその結果に影響を及ぼしてジェンダー視点を中心にすえることもある
- それはアイデンティティであり、千野や若桑はのアイデンティティはそこにある
- そのアイデンティティにおいて、千野と若桑は「わたちたち」つまり一つであるといえる
- しかし問題意識が同じでも解決法が違うので、その点では「わたし」であり、一つではなく差異がある
- 稲賀は「複合的視点に立つ」と表明しているのに、ジェンダー的視点が書いていない
- 稲賀が対峙すべきは、単眼的視点に立つ権威側であるにもかかわらず、最初にジェンダー批判をしたという事実は否定できない
そして最後に若桑は、稲賀は若桑の文章をヒステリックな被害妄想であると非難したが、もしそうであるならば、稲賀のジェンダー批判の中にある単眼的視点を感じ取った反応であるかもしれないと締めくくった。
氏は複合的視点に立つと表明しておられる以上、そこにはジェンダー的視点が挿入されないはずはありません。そうであれば、第一に非難されるべき相手は単眼的視点に立つ、より権威ある、よりエスタブリッシュされた、かの「オーソリティー」らではないでしょうか。にもかかわらず、まずはジェンダーを撃った、という事実は否定しようもありません。そこから明確にジェンダーの「敵」である視覚化された相手よりも、一層手ごわい存在を氏のなかに感じとった私の側に「恐怖にも似たリアクション」が生じたとしてもあながち私の被害妄想とばかりは言えないでしょう。 — 若桑みどり、「「稲賀繁美氏の鯛を太らせる蝦、あるいは蟷螂の鎌の駄弁」と題する誌上公開書簡:本誌30号への返答」、月刊『あいだ』33号、1998年9月、pp.8-9
月刊『あいだ』33号、稲賀から若桑への応答
[編集]『あいだ』は編集部判断で発売前に、稲賀に若桑の原稿を見せた。よって、同じ『あいだ』33号の若桑の文章の隣に、稲賀からの応答が載せられた。稲賀は、若桑が常に使用している肩書き「美術史家」を揶揄するように、自身の肩書を「肩書に美術史家と書くことには躊躇を覚える一書生」とした。この号の稲賀は、自分を武士と仮定した上で抽象的で古い文体を使って反論している
己が牙を研ぐためには、仲間をも襲うのが古来強者の常道。だが、弱者の代弁する立場が、強者の武器を手にするのは卑劣。武とは矛を止める意味。ところで、敵方の矛の研磨剤に徹し、その武器をさらに営利にする営みは、加担の疑義を免れるか。 — 稲賀繁美、「「不発に終わった論争への(エピローグならぬ)モノローグ:あるいは鯛に悟られたのを悔やむ蝦の戯言」月刊『あいだ』33号、1998年9月、pp.9-10
- 稲賀の反省点
- 武術は間合い勝負だが、身を守るために傭兵(若桑)が隙を作らなかった、そこは稲賀は反省する
- 若桑につけ込むスキを与えたのだから、稲賀の薪き餌に噛み付いて欲しかった
- 稲賀は、読者に罵詈雑言の応酬でカタルシスを提供できなかったことを、恥ずかしさと共に認める
- ジェンダー思想への批判
- 若桑、千野への批判
- ジェンダー論をお行儀の良い物わかりのよい武器として相対化して撤退した若桑は、政治的に失策である。だから稲賀は苛立って千野を批判した
- 建設的な議論は始まったばかりなのに、稲賀を「手強い存在」として認知して議論を撤回されては、議論が不毛になる
- 若桑は、アイデンティティー・ポリティクスと当事者性の倫理観の認識が不十分
- 稲賀の「欠点や遺漏をきちんと指摘する義務感」からジェンダー的「意識」で、千野や若桑のジェンダーの「活動」や「視点」を批判しているのに、稲賀は「市民権」が得られていない。だから若桑はジェンダー的視点を持っているとは言えない
- ジェンダー論一般というものが存在しない以上、若桑から稲賀に詰問されても、党派的な色付けや位置付けなどできないし、若桑の要求は矛盾している
若桑はこれに対しての応答はせず、この号で若桑と稲賀の論争は終わっている。
小川から千野への批判
[編集](こに小川、東京大学東洋文化研究所東アジア研究室・主任教授からの批判をまとめる、資料は国立国会図書館にある)
「研究ノート 書画と美術--「今、日本の美術史学をふりかえる」国際研究集会に寄せて / 小川裕充/p157~166」美術史は : 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美術史研究室紀要. (14)
小川裕允は『美術史論叢』で「研究ノート 書画と美術--「今、日本の美術史学をふりかえる」国際研究集会に寄せて / 小川裕充/p157~166」を寄稿した。そこでは、かつて中国から日本に入ってきた「芸術」という言葉は書画を含んでおり、現在の「芸術」と意味あいが異なる。また日本の造語である「美術」はヨーロッパの影響を受けたものであり、その中でも「旧い美術」はヨーロッパ、「新しい美術」はアメリカ・ヨーロッパの思想だと説明している。その上で、千野は新旧の美術の相対化を目指さず、「新しい美術史学」の絶対化を目指していると分析をしている。また中国の土台の上に日本の美術が成り立っていたにも関わらず、東アジアにおいて日本が中心であるかのような、近代以前の記憶を断絶させる視点を千野や鈴木杜幾子は持っているとした。加えて男女の軸を持ち出すことによって、被抑圧者である他の東アジアやアフリカ諸国の人種や文化に対する差別を助長する可能性を否定していると批判している。
千野香織から小川と稲賀への応答え
[編集]『女?日本?美?新たなジェンダー批評に向けて』での応答
[編集]千野香織は、書籍『女?日本?美?新たなジェンダー批評に向けて』にて『美術館・美術史学の領域にみるジェンダー論争 1997-98』として、自身の応答と共にジェンダー論争について44ページに渡りまとめた。千野は、ある状況下である時代を生きた一人の証言者として、この論争を、美術に関わりのない人たちやこれから訪れる21世紀を生きる人たちにも知ってほしいと綴っている。執筆は光田由里と鈴木杜畿子(明治学院大学)にも依頼しており、3人はジェンダーに関する基本的な認識を共有しているので、「それぞれ異なってはいるが合唱すれば力強い響きを伝えることができる声の束として」の効果を狙っている。
「普通」を批判することによって世界の複数性、流動性、非・本質性を指摘するだけなら、いまや誰にでも簡単にできる。しかしそのような批判は、時として逆に、現代社会への批判を封じ込める結果にもなる。「普遍的な」価値を批判する目的が、「正当な社会のヴィジョン」を放棄させ、現在の社会体制を維持することにあるとしたら、その批判を行った者の立場は明白であろう。 — 千野香織、『美術館・美術史学の領域にみるジェンダー論争 1997-98』p128(「女?日本?美?新たなジェンダー批評に向けて」慶応大学出版)
千野による稲賀および小川論の考察
[編集]千野は、稲賀は自らの先進性・革新性を読者に示すために、ひるがえって土台の現状維持を好んでいると考察している。そのために、稲賀は自身がジェンダー論者(ジェンダーについて知識がある)であることを読者に印象づけながら、ジェンダー論の解体を試みるのである。
- 千野は、当日の発表原稿(英訳もあり、一字一句違わずに読んだ原稿)を使いながら、稲賀が常套手段として行う、前後の文脈から切り離して読者に誤読を促す手法を一つ一つ指摘していった。
- 「普通はない、客観はない、大きな物語はない、したがって被抑圧者が立ち上がる際の拠り所も存在しない、いやそもそも一義的な被抑圧者など存在しない」という稲賀の論法に対し、千野は「かつては保守的な体制派を撃つために有効だったポストモダニズムが、いまや保守派の便利な道具になってしまっている」と、稲賀の論法はポストモダニズム論者の好む典型的な論法の転用だとしている。
- 稲賀は、当座の議論に関係のないジェンダーの話題を唐突にひけらかすことによって、「粗朴」で知識のない論者の千野という印象操作を読者に与えている。千野はその例を、婚姻関係[14]や異性愛男性[15]の話題として出した。
- 稲賀は、単純な事実誤認が多い。例としてシンポジウムで「辻成史が千野に質問をした」[16]と書いているが、質問者は大西廣である。また千野が回答したと書いている文章は、実際は大西の質問事項である[16]。つまりシンポジウムの質疑応答の稲賀の引用に事実は無い。
千野は、小川の批判を(ここに小川への応答を書く)
千野による稲賀および小川論の分析
[編集]千野は、ジェンダー論争が持った政治的意味を分析した。
- 現実世界と切り離された「美術」が存在するのか
- 存在する:三田は明言。小川は状況から存在をほのめかし
- 存在しない:小勝、若桑、千野、光田、鈴木は、社会と美術は関係していると考える
- 発言なし:稲賀
千野は、ノーマン・ブライソン「ニュー・アート・ヒストリー」や光田の論を披露しながら、美術と政治をめぐる問題は、「すべての学問的な問い直しを迫るもの」だとしている。
- 内容にもまして、稲賀と小川の文体の独特さ
- 稲賀のへりくだりは、自らを小さく見せて、ジェンダー論を語る女性こそ強者であると印象づける
- 三田もジェンダー論こそ抑圧の論理だと主張している
- 議論が活発なこととをもって、女性が強者であるとはならない
- 小川の文体は、苛立ちと恫喝に満ちていて、議論にならない
- 取り上げる価値もない論文だが、小川の肩書が「東京大学東洋文化研究所東アジア研究室・主任教授」である以上、学問制度の内部での力を避けられずに取り上げた
- 小川の論文は、内容ではなく、小川の地位と重なり合って作用する政治性を持っている
- 稲賀のへりくだりは、自らを小さく見せて、ジェンダー論を語る女性こそ強者であると印象づける
鈴木杜畿子から小川への反論
[編集]小川裕允は、書籍『美術史論叢』で千野が発言した美術誌研究会への批判をしている。その過程で、鈴木杜畿子が執筆した『美術とジェンダーー序にかえて』(「美術とジェンダー―非対称の視線」ブリュッケ刊)を批判している。鈴木の問題設定が、抑圧者である「ヨーロッパと日本」だけであり、それ以外の被抑圧者の国々(アフリカ諸国やアジア)には触れていない。それは差別を隠蔽・助長する可能性がある。よって、鈴木は差別を隠蔽する可能性の認識がないと批判をしている。
実際には、鈴木は抑圧者である「ヨーロッパと日本」の女性差別だけを強調はしておらず、「新しい美術史学」が無名の・女性の・欧米以外の作家の作品について、あらゆる性別・階級・人種に属する研究者が自分の立場から語る可能性を開くものであると書いている。鈴木は、小川の読み違いの理由として、鈴木が「女の西洋美術史研究者」の文章だから、先入観があったのではないかと見ている。たとえ「ヨーロッパと日本」以外の国々に触れていないと仮定した場合でも、「発言したもの以外を触れていないから差別である」という論法は、あらゆる差別構造すべてを網羅しない限り批判できてしまうので、批判として成り立たない。
その他の雑誌や書籍等で扱われたジェンダー論争
[編集]- 『インパクション』110号、北原恵
- 『武蔵野美術』110号、上田高弘
- 『年鑑’99』(『美術手帖』98年12月号増刷)三田らが聞き手として出た座談会
主な論者
[編集]三田晴夫はジェンダー理論批判として、『状況考(六)美術と正義をめぐって』[17]、『状況考(八)反映論と党派性をめぐって一一 若桑みどり、小勝禮子両氏に応える』[18]を発表している。三田への反論として、小勝鶴子は、『抑圧の論理をめぐって 三田氏に対する反論一一再びジェンダーと美術について』[19]『美術とジェンダ一一3 三田晴夫氏の『反映論と党派性』という断定に対する反論』[20]を発表した。若桑みどりは、『ジェンダーーの視点にたつ美術史をめぐる『男性』の言説について 稲賀繁美氏の「『今、日本の美術史学をふりかえる』を聞いて」を読んで』[21]、『稲賀繁美氏の『鯛を太らせる蝦、あるいは蟷螂の鎌の駄弁』と題する誌上公開書間一一本誌30号への返答』[22]を発表した。稲賀繁美は『鯛を太らせる蝦、あるいは蟷螂の鎌の駄弁一一若桑みどり様へ』[23]、『不発に終わった論争への(エピローグならぬ)モノローグ一一あるいは鯛に悟られたのを悔やむ斯の戯言』[24]がある。
一連の三田の応答は、未熟なジェンダー理解を露呈するに終わっている[25]。また、このジェンダー論争の経緯はシンポジウムの同名の書籍[26]にまとめられた。
論集の構成
[編集]- 『はじめに 今改めて「女」と「日本」と「美」について考える』
- 『第1部 ジェンダーで読み解く美と権力』
- 『第2部 現代の表象文化とセクシュアリティ』
- 『第3部 ARTとACTの狭間で』
- 『おわりに ジェンダー批評の未来へ』
参考文献
[編集]- “美術館とジェンダーをめぐる30年の戦い笠原美智子×小勝禮子 シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?”. ウェブ版美術手帳 (2021年9月1日). 2021年9月1日閲覧。
- 「三田晴夫「状況考(3)借り物の思想・知・主題をめぐって」」『LR 美術批評』1997年8月、pp.22-23第3号。
- 「小勝禮子「『美術とジェンダー』の現在―『揺れる女/揺らぐイメージ』展をめぐって」」『LR 美術批評』1998年2月、pp.28-35第6号。
- 「三田晴夫「状況考〈6〉美術と正義をめぐって」」『LR 美術批評』1998年5月、pp.22-25第7号。
- 「小勝禮子「抑圧の論理をめぐって 三田氏に対する再反論―再びジェンダーと美術について」」『LR 美術批評』1998年7月、pp.70-76第8号。
- 「三田晴夫「状況考〈8〉反映論と党派性をめぐって」」『LR 美術批評』1998年9月、pp.6-11第9号。
- 「小勝禮子「三田晴夫氏の『反映論と党派性』という断定に対する反論」」『LR 美術批評』1998年11月、pp.6-12第10号。
- 「三田晴夫「状況考〈9〉観念性と肉体性をめぐって―ジェンダー論争の極私的総括」」『LR 美術批評』1999年3月、pp.6-11第12号。
- 「笠原美智子さんに聞く『ラヴズ・ボディーヌード写真の近現代』展をめぐって 山本育夫=聞き手」『LR 美術批評』1999年11月、pp.6-25第16号。
- 「フェミニズム理論の現在:アメリカでの展開を中心に」ホーン・川嶋 瑶子、ジェンダー研究所、1998年3月
- グリゼルダ・ボロックの『視線と 差異』
脚注
[編集]- ^ “アート ワード┃ジェンダー論争”. artscape (2021年9月1日). 2021年9月1日閲覧。
- ^ 『女・アート・イデオロギー フェミニストが読みなおす芸術表現の歴史』, 新水社, ロジカ パーカー, グリゼルダ ポロック
- ^ 『美術とジェンダー 非対称の視線』(ブリュッケ, 1997年)
- ^ “アートコモンズー展覧会情報検索@国立新美術館”. 国立新美術館. 2021年9月3日閲覧。
- ^ a b 「小勝禮子「『美術とジェンダー』の現在―『揺れる女/揺らぐイメージ』展をめぐって」」『LR 美術批評/展覧会批評誌〈エル・アール〉』6号、1998年2月、pp.28-35。
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- ^ 『あいだ EXTRA』29号、1998年5月
- ^ 『あいだ』 33号、1998年10月
- ^ 『あいだ EXTRA』 30号、1998年6月
- ^ 『あいだ』33号、1998年10月
- ^ 『美術の日本近現代史―制度 言説 造型』東京美術出版、2014年初版、769頁
- ^ 『女?日本?美? 新たなジェンダー批評に向けて』, 慶應義塾大学出版会, 熊倉 敬聡 (編集), 千野 香織 (編集)
関連項目
[編集]{{DEFAULTSORT:おんなにほんひ あらたなしえんたあひひようにむけて}} [[Category:1996年の日本]] [[Category:東京都港区の歴史]] [[Category:慶應義塾大学の歴史]] [[Category:1996年12月]] [[Category:美術書]] [[Category:1999年の書籍]] [[Category:日本のジェンダー]] [[Category:フェミニズムとアート]]