利用者:Omaemona1982/下書き10
ネヴィル・チェンバレン Neville Chamberlain | |
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生年月日 | 1869年3月18日 |
出生地 | イギリス・イングランド・バーミンガム |
没年月日 | 1940年11月9日(71歳没) |
死没地 | イギリス・イングランド・ヘックフィールド |
出身校 | メーソン・サイエンス・カレッジ |
前職 | 実業家 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 王立協会フェロー(FRS) |
配偶者 | アン |
親族 |
ジョゼフ・チェンバレン(父) オースティン・チェンバレン(異母兄) |
サイン | |
在任期間 | 1937年5月28日 - 1940年5月10日[1] |
国王 | ジョージ6世 |
内閣 |
第1次ボールドウィン内閣 マクドナルド挙国一致内閣 第3次ボールドウィン内閣 |
在任期間 |
1923年8月27日 - 1924年1月22日[2] 1931年11月5日 - 1937年5月28日[2] |
内閣 |
ボナー・ロー内閣 第1次ボールドウィン内閣 第2次ボールドウィン内閣 マクドナルド挙国一致内閣 |
在任期間 |
1923年3月7日 - 1923年8月27日 1924年11月6日 - 1929年6月4日 1931年8月25日 - 1931年11月5日 |
内閣 | ボナー・ロー内閣 |
在任期間 | 1922年 - 1923年[3] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
バーミンガム・レディウッド選挙区 バーミンガム・エッジバストン選挙区[3] |
在任期間 |
1918年12月14日 - 1929年5月30日 1929年5月30日 - 1940年11月9日[3] |
その他の職歴 | |
バーミンガム市長 (1915年 - 1917年) | |
保守党党首 (1937年5月31日 - 1940年10月5日[4]) | |
枢密院議長 (1940年5月11日 - 1940年10月3日) |
アーサー・ネヴィル・チェンバレン(Arthur Neville Chamberlain, FRS、1869年3月18日 - 1940年11月9日)は、イギリスの政治家。
実業家として活躍した後、バーミンガム市長を経て、1918年に保守党議員として中央政界へ移る。スタンリー・ボールドウィンの3度の内閣やラムゼイ・マクドナルドの挙国一致内閣で大蔵大臣や保険大臣を務め、福祉政策に貢献した。1937年5月のボールドウィンの引退で代わって保守党党首・首相となる。当初ナチス・ドイツに対して宥和政策をとっていたが、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻を機に対独開戦に踏み切り、第二次世界大戦を勃発させた。しかし1940年4月から始まった北欧戦でドイツ軍に惨敗を喫して引責辞任した。
植民地大臣を務めたジョゼフ・チェンバレンは父、外務大臣を務めたオースティン・チェンバレンは異母兄にあたる。
概要
[編集]1869年、後に植民地大臣となる実業家ジョゼフ・チェンバレンの次男として生まれる。異母兄にオースティンがいる。メーソン・サイエンス・カレッジを卒業後、会計事務所に勤務。1891年から7年に渡ってバハマ諸島・アンドロス島でシザル麻栽培のための事業を行うが失敗。その後バーミンガムで実業家として名を上げ、1911年にはバーミンガム市議会議員、1915年にはバーミンガム市長となる。
1918年12月の解散総選挙でバーミンガム・レディウッド選挙区から保守党候補として出馬して当選。1922年にアンドルー・ボナー・ロー内閣の郵政長官に就任。1923年3月には保険大臣に昇進。続く第一次スタンリー・ボールドウィン内閣でも重用され、同年8月には大蔵大臣に就任した。
1924年11月から1929年6月の第二次ボールドウィン内閣にも保健大臣として入閣し、妊婦死亡率の減少や住宅建設に尽力した。1931年8月から1935年5月のラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣に大蔵大臣として入閣し、世界大恐慌対策に均衡財政を目指した。しかしドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が政権を獲得し、再軍備を進めるようになると軍事費の増額を目指すようになった。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1869年3月18日、バーミンガムのエッジバストンで生まれた。父は当時バーミンガムの大実業家だったジョゼフ・チェンバレン。母はその後妻フロレンス(旧姓ケンルック)[5]。同母妹が三人いる。また父ジョゼフは先妻との間にも子供を二人儲けており、そのうちの一人がオースティンだった[6]。
6歳の時に母フロレンスが出産が原因で死去し、母のいない家庭で育つことになった。この孤独感がネヴィルの独立心・自制心を形成したという[6]。また母がいない家庭を作ってはならないという信念を強め、後のネヴィルの福祉への積極的な取り組みの思想的背景となった[6]。ラグビー校を卒業後、メーソン・サイエンス・カレッジ(後にこのカレッジはバーミンガム大学のカレッジの一つとなる)に入学し、科学と工学を学んだ[5]。
政治家に転身した父ジョゼフは、理系の道を突き進む次男ネヴィルを見て「ネヴィルは決して政治家にはならないだろう」と予想した。実際、ネヴィルはすぐには政治家にならず、大学卒業後には会計事務所に勤務している。その勤務ぶりは非常に精勤であったという[7]
実業家として
[編集]父ジョゼフは政治に専念するべく、1880年代に実業界から身を引いたが、1890年にはバハマ総督アンブローズ・シーと知り合ったことでバハマ諸島のシザル麻栽培に関心を持ち、1891年に息子のオースティンとネヴィルをバハマ諸島・アンドロス島へ調査に行かせた。結局ジョゼフはここにアンドロス繊維会社を立ち上げることとし、ネヴィルにその経営を任せた。以降7年に渡ってアンドロス島に滞在してシザル麻栽培に尽くすことになる[8]。
22歳から28歳という多感な青年期を隔絶された孤独な環境で過ごしたことはチェンバレンの独立心と自制心を一層育てたという[9]。
労働者を雇って土地の開墾の指揮をとりつつ、しばしば自らも斧を振るって開墾に参加したという[10]。だが苦労して作ったシザル麻栽培のための土地は栽培に全く向いておらず、最終的にアンドロス繊維会社の事業は5万ポンドもの損失を出して失敗に終わった[11]。
アンドロス島から帰還するとバーミンガムのエリオット金属会社やホスキンズ・アンド・サン会社(船舶用金属製寝台製造会社)に勤務するようになった[12]。1911年にはアン・コールと結婚した[9]。
やがてバーミンガム産業界の指導的人物となり、1911年にはバーミンガム市議会議員となり、市の都市計画と福祉事業に参画する[13]。
バーミンガム市長
[編集]第一次世界大戦中の1915年にはバーミンガム市長に就任した[9]。
バーミンガム市長となったチェンバレンは戦時貯蓄銀行の必要性を感じ、これに反対していた大蔵省金融担当政務次官エドウィン・サミュエル・モンタギュー、ロイド銀行やロンドン・シティ・アンド・ミッドランド銀行などを熱心に説得し、ついに1916年に戦債投資法を庶民院に通過させることに成功した。この法律は貯蓄を戦債に投資させるためのものであり、これによってバーミンガム戦時貯蓄銀行の樹立が可能となった[12]。
デビッド・ロイド・ジョージはチェンバレンと会ったことはなかったが、市長としての業績を高く評価し、ロイド・ジョージが首相となった1916年12月に国民兵役担当長官に任じられた。しかしロイド・ジョージとの関係がうまくいかず、まもなく辞職した[9][14]。
中央政界へ
[編集]1918年12月の解散総選挙でバーミンガム・レディウッド選挙区から保守党候補として出馬して初当選を果たす。当時保守党はロイド・ジョージ政権を支えていたが、チェンバレンはロイド・ジョージとは距離を置いていた[9]。
1922年に保守党はロイド・ジョージとの大連立を解消し、ボナー・ローを首相とする単独政権を樹立した。チェンバレンはその内閣に郵政長官として入閣した[9]。ボナー・ローとしてはチェンバレンに彼の兄であるオースティンとの橋渡し役を期待していたという[14]。
1923年3月には保険大臣に転任する。5月にボナー・ローが引退し、スタンリー・ボールドウィンが後任の首相・保守党党首となるが、ボールドウィンからも重用され、8月には大蔵大臣に抜擢された。チェンバレンは父ジョゼフと同様に社会保障の財源として関税を見込んでおり、保護貿易の帝国特恵関税制度を支持していた。11月にはボールドウィンも帝国特恵関税制度の必要性を感じて、12月にその是非を問う解散総選挙に打って出た。しかし保守党はその総選挙で敗北したため、チェンバレンも予算に携わる機会のないまま蔵相を辞した[15]。
第二次ボールドウィン内閣保健大臣
[編集]1924年11月に成立した第二次ボールドウィン内閣でも保健大臣に再任され、政権が崩壊する1929年6月までの長期にわたって在職した。
1926年には助産婦および産院法制定を主導した。これによって妊婦死亡率は大きく減少した[13]。また1926年から住宅建設を主導し、1929年の退任までに100万戸もの住宅を建設した。またスラム街の一掃にも尽力し、1929年までにイングランドとウェールズで58のスラム街を消滅させることに成功した[13]。
1928年には保健大臣に救貧委員の任命権限を与える『救貧委員怠慢法案』の制定を主導した。この法律は労働党の影響下にある市議会や救貧委員会の浪費を抑えることを主眼としていたため、労働党の強い反発を買った。労働党は悪意ある質問をチェンバレンに集中させた。チェンバレンの方も労働党への憎しみを強め、労働党議員を個人攻撃するようになった。そのやり方の評判がよくなかったため、しばしば首相ボールドウィンから注意された。この後も労働党との対立は根深く続くことになる[16]。
この保健相在任中に保守党内におけるナンバーツーの座を確立していった[17]。
マクドナルド挙国一致内閣大蔵大臣
[編集]1931年8月に労働党政権の首相ラムゼイ・マクドナルドは世界大恐慌対策に失業手当と公務員給料の削減による均衡財政を目指したが、失業手当削減をめぐって閣内分裂して政権崩壊した。マクドナルドは労働党大連立派(ごく少数)と保守党と自由党で大連立し、挙国一致内閣を形成した。チェンバレンもこの内閣に保健大臣として入閣。11月には大蔵大臣に転じた。チェンバレンはマクドナルドの均衡財政方針を全面的に支持しており、「予算というものは長期にわたって均衡を図るより、年毎に均衡を図るべきである」と述べていた[18]。
大蔵大臣としての最初の予算案から所得税の増税を行った。また為替平衡勘定を設定することで投棄に歯止めをかけて為替安定を図った。さらに低金利政策を実施し、20億ポンドに及ぶ5分利子の戦時国債を3分5厘に借り換えるか償還するかし、また公定歩合を2%に下げた。この結果、年間3000万ポンドの節約が実現された[19]。
また1932年には大英帝国外からの全商品に10%の関税を課しつつ、帝国内からの商品には関税を課さないという帝国特恵関税構想に基づく『輸入関税法』を可決させた。この際にチェンバレンは「父ジョゼフの考え方を直接に、しかも正確に受け継いだこの法案が父の愛した庶民院に提出され、しかも父の名声と血を直接に受け継いだ息子2人のうちの1人によって提出されたということを父が知り得たとすれば、絶望した父が安らぎを見出すであろうと信じる」と演説した。これはチェンバレンの生涯を通して唯一の感情的演説であるとされる[20]。
1933年1月にドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を獲得した。チェンバレンは駐ドイツ・イギリス大使サー・ホレース・ランボールド准男爵のヒトラーの軍拡方針とナショナリズムを危険視した報告書と1934年7月にオーストリア・ナチ党員がオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースを暗殺した事件を見て、ヒトラーを危険視するようになった[21]。
チェンバレンは1934年度予算から軍事費を大幅に増額していった[21]。
第三次ボールドウィン内閣大蔵大臣
[編集]1935年6月、マクドナルド首相が引退し、ボールドウィンが首相となる[22]。チェンバレンは引き続き大蔵大臣を務めた[2]。この最後のボールドウィン内閣の最高指導者は事実上チェンバレンであり、とりわけ軍事問題については彼が最大の影響力を持った[23]。
チェンバレンは毎年軍事費を上昇させ続けた。当初は均衡財政にも固執して道路基金からの借入や所得税や茶税の引き上げなどで軍事費急上昇に対応したが、それだけでは軍拡の維持は難しくなり、1937年2月には防衛国債法案を成立させて国債で軍事費を賄うようになった[24]。
一方ヒトラーもドイツの軍拡を急ピッチで進めていた。やがてドイツ再軍備が既成事実化してしまうとチェンバレンはいつまでも形骸化したヴェルサイユ条約やロカルノ条約に固執していても仕方ないと考えるようになり、ドイツへの宥和的対応も必要という立場に転じていった[25]。またドイツが強力になればソ連共産主義に対する防波堤の役割を果たしてくれるという期待感も持つようになった[26]。
1936年3月にヒトラーは仏ソ相互援助条約を理由にヴェルサイユ条約で非武装地帯に定められていたラインラントへ進駐したが、イギリス国内ではドイツの領土にドイツ軍が入っていただけとして融和ムードが強かった[27]。チェンバレンも同様の考えであり、イギリスに伺いを立てに来たフランス外相ピエール=エティエンヌ・フランダンに対して「イギリスの世論はどのような対独制裁も支持しないであろう」と返答している。外相アンソニー・イーデンがこの方針を「ヨーロッパの宥和」政策としてまとめ、チェンバレンもそれに賛成した結果、以降チェンバレンの対独譲歩政策は宥和政策と呼ばれるようになった[28]。
1936年7月にスペインで、左翼政府「人民戦線」とフランコ将軍率いる右派の武力衝突が発生し、ソ連が左翼政府を、ドイツ・イタリアが右派を支援した(スペイン内戦)。この戦争に対してイーデン外相はイギリスの不干渉方針を表明し、チェンバレンもこの方針に賛同した。チェンバレンの考えるところ、不干渉方針は独ソを潰し合わせてイギリスが漁夫の利を得ることができるうまい手段であった。一方、野党労働党は左翼政府を支持しており、政府の不干渉政策を批判したが、イギリス世論の大半は戦争に引きずり込まれることを望んでおらず、政府の不干渉方針を支持する者が多かった[29]。
チェンバレン内閣
[編集]1937年5月にボールドウィンが引退したとき、チェンバレンが後任の保守党首・首相となることに反対する者は党内にいなかった。党内の反執行部分子になっていたウィンストン・チャーチルさえも反対しなかった(ただしチャーチルは「党内の反対意見に耳を貸す」ことを新党首に要求した)[30]。
宥和政策を続行する意思であったチェンバレンは、1937年11月にハリファックス卿をドイツに派遣した。彼とヒトラーの会談からドイツと友好関係を保つことは可能との自信を強めた[31]。
他方でイタリアをドイツから引き離すことでドイツを孤立させることも企図し、イタリアのムッソリーニ首相と接近を図った。外相イーデンはスペイン問題でイタリアが何度も約束を反故にしたことからイタリアに不信感を持っており、これに反対したが、チェンバレンから受け入れられなかったため、1938年2月に辞職した。チェンバレンはイーデンの後任にハリファックス卿を任じ、4月にもイタリアとの間に、地中海の現状維持、イタリアのエチオピア植民地化の承認、イタリア義勇軍のスペインからの撤収を約定した英伊協定を締結した[32]。
しかしその間の1938年3月12日にヒトラーはドイツ民族国家オーストリアをドイツに併合した(アンシュルス)。チェンバレンは「オーストリア問題は今や邪魔にならない」として捨て置いた。庶民院では野党やチャーチルら保守党反執行部派から「傍観した」という批判を受けたが、チェンバレンは「もしこれを阻止しようとするなら軍事力を行使する以外になかった」と反論して反戦世論に訴えかけ理解を求めた[33]。
アンシュルス後、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンがチェンバレンに接触を図ってきたが、チェンバレンはソ連との連携を拒否した[34]。彼はスターリンの動機を疑っていたし、ソ連赤軍は大粛清により軍部のほとんどが皆殺しにされ、機能不全状況に陥っていたので同盟を結んだところでまともな戦力になると思えなかった。いたずらにヒトラーに孤立への不安を与えて先鋭化させ、またドイツと防共協定を結ぶ日本も警戒してドイツへの接近を推し進めるという結果になる恐れが高かった[34][35]。
人物・評価
[編集]ハロルド・マクミランは「今日ミュンヘン会談とか、首相としての悲劇な時代と関連させて、チェンバレンを考える人々もいるが、しかしそのような人々は社会改良に関する彼の素晴らしい業績を忘れてはならない」と語っている[36]。一方ブレイク男爵はチェンバレンは社会改革論者であったが、既存制度の緩和に留まっており、干渉論的資本主義者ではなかったとしている[37]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 秦(2001) p.511
- ^ a b c 秦(2001) p.512
- ^ a b c HANSARD 1803–2005
- ^ 秦(2001) p.542
- ^ a b 世界伝記大事典(1980)世界編6巻 p.132
- ^ a b c 坂井(1977) p.3
- ^ 坂井(1977) p.14
- ^ 坂井(1977) p.4/6
- ^ a b c d e f 世界伝記大事典(1980)世界編6巻 p.133
- ^ 坂井(1977) p.5
- ^ 坂井(1977) p.5-6
- ^ a b 坂井(1977) p.7
- ^ a b c 坂井(1977) p.12
- ^ a b ブレイク(1979) p.266
- ^ 坂井(1977) p.13/18
- ^ 坂井(1977) p.15
- ^ ブレイク(1979) p.267
- ^ 坂井(1977) p.14-15
- ^ 坂井(1977) p.18
- ^ 坂井(1977) p.13
- ^ a b 坂井(1977) p.20
- ^ 河合(1998) p.237
- ^ ブレイク(1979) p.279
- ^ 坂井(1977) p.25-26
- ^ 坂井(1977) p.35
- ^ 坂井(1977) p.51
- ^ 河合(1998) p.241
- ^ 坂井(1977) p.36-37
- ^ 坂井(1977) p.42-45
- ^ 河合(1998) p.247
- ^ 坂井(1977) p.51-52
- ^ 坂井(1977) p.53-54
- ^ 坂井(1977) p.76
- ^ a b 坂井(1977) p.78
- ^ 河合(1998) p.248
- ^ 坂井(1977) p.12-13
- ^ ブレイク(1979) p.277
- ^ 早川(1983) p.22-23
参考文献
[編集]- 朝倉治彦、三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年(平成8年)。ISBN 978-4040319001。
- 河合秀和『チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版』中央公論社〈中公新書530〉、1998年(平成10年)。ISBN 978-4121905307。
- 坂井秀夫『近代イギリス政治外交史4 人間・イメージ・政治』創文社、1977年(昭和52年)。ASIN B000J8Y7CA。
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
- 早川崇『ジョセフ・チェンバレン 非凡な議会人の生涯と業績』第一法規、1983年(昭和58年)。
- ブレイク男爵 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年(昭和54年)。ASIN B000J73JSE。
関連項目
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 フレデリック・ケラウェイ |
郵政長官 1922年-1923年 |
次代 サー・ウィリアム・ジョインソン=ヒックス准男爵 |
先代 サー・アーサー・グリフィス・ボスカウェン |
保険大臣 1923年 | |
先代 スタンリー・ボールドウィン |
大蔵大臣 1923年 - 1924年 |
次代 フィリップ・スノーデン |
先代 ジョン・ウィートリー |
保険大臣 1924年 - 1929年 |
次代 アーサー・グリーンウッド |
先代 アーサー・グリーンウッド |
保険大臣 1931年 |
次代 エドワード・ヒルトン・ヤング |
先代 フィリップ・スノーデン |
大蔵大臣 1931年 - 1937年 |
次代 ジョン・シモン |
先代 スタンリー・ボールドウィン |
首相 1937年 - 1940年 |
次代 ウィンストン・チャーチル |
先代 第7代スタンホープ伯爵 |
枢密院議長 1940年 |
次代 ジョン・アンダーソン |
党職 | ||
先代 スタンリー・ボールドウィン |
イギリス保守党党首 1937年 - 1940年 |
次代 ウィンストン・チャーチル |