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利用者:Linearcollider/下書き2

いのうえ ひろやす

井上 広居
肖像写真
生誕 小貫金之助
(1864-10-04) 1864年10月4日
日本の旗 日本秋田県秋田市手形[1][2]
死没 (1956-06-05) 1956年6月5日(91歳没)
日本の旗 日本秋田県秋田市手形
墓地 闐信寺(秋田市手形)[1]
国籍 日本の旗 日本
別名 雪竹
出身校 東京専門学校政治学科卒業[2]
職業 政治家、新聞社社長
肩書き 秋田魁新報社長
前任者 安藤和風
後任者 吉村精一
政党 立憲国民党→立憲同志会→憲政会
配偶者 ヨシ
子供 勇(長男)、啓二(次男)、カウ(長女)、ヒデ(次女)[3]
小貫久之進
家族 亀松(兄)[4]
受賞 秋田市最高功労者(1952年)
栄誉 勳四等
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日本の旗 秋田市議
当選回数 3
在任期間 1892年3月28日 - 1901年5月29日

日本の旗 秋田県議
当選回数 2
在任期間 1903年9月25日 - 1911年9月24日[5]

日本の旗 衆議院議員
内閣 第2次西園寺公望内閣 - 第2次大隈重信内閣
選挙区 秋田市区
当選回数 2
在任期間 1912年5月15日 - 1917年1月25日

日本の旗 秋田市長
選挙区 秋田市
当選回数 4
在任期間 1916年8月18日 - 1932年9月3日[6]
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井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日 <1864年11月3日> - 昭和31年(1956年)6月5日[2])は、日本政治家衆議院議員立憲国民党立憲同志会憲政会)や秋田市長(第6代)[7]を務めた。

経歴

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生い立ち

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久保田藩士小貫久之進の次男として生まれる。幼名は金之助[1][2][3]雅号は雪竹[2]。実父の久之進は広居が生まれる前に死去したため、祖父小貫東馬が養育に当たった[8][4]。7歳の時、井上家の嫡子福治が死去し後継ぎがいなかったため、井上家の養子となり家督を継いだ[4][1][2][3]

子供の頃から非常に病弱で、風邪を引きやすく、すぐ胃腸を痛めた[8]。それでも身体の弱さにめげず勉学に励み、カタカナ、ひらがな、数学はもちろん孔子孟子など漢籍も学びかけた頃、明治5年(1872年)学制がしかれ小学校に入学したが、急造教師の力のなさにうんざりして4、5日で通学をやめてしまった[8][4]

その後、平元謹斎、西宮端斎らが開いた私塾「四如堂[1][4][注 1]」に通って勉学に努めたが、通っている間も病気に悩み、生家に最も近いと理由で神沢素堂の塾「責善学舎」で学ぶことになった[9][4]。ここでは塾頭格になり、素堂の講義後の解説や代講もしたという[10][11]

上京・進学

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塾で陽明学を修めた後、生まれつき病弱だったが大決心をし、どうにか親の許しを得て明治15年(1882年)秋に上京し、明治16年(1883年)春に東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済学科1期生として入学した[1][12][13][注 2]明治17年(1884年)夏、井上は大隈重信に自宅へ呼び出され、大隈と天下国家の形勢や秋田の思い出などを語った。この出会いが後年の思想行動に影響を与えた[15]明治19年(1886年)7月25日に卒業論文「教育者の待遇論」を書き、政治経済学科を2番の好成績で卒業したが、いぜんとして身体は弱く、卒業式の日も薬ビンを携行したという[14][12][1]

帰郷・新聞社に入社

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町田忠治などに中央官庁へ出仕を勧められたが、卒業した年はコレラが大流行し、毎日多くの死体が火葬場へ運ばれていくのを見た井上は、やはり健康に自信が持てなかったため郷里秋田へ帰ることとした[16][12][注 3]

明治20年(1887年)5月、特に職にもついてなくぶらぶらしていた井上に大久保鉄作が訪ね、新聞を手伝てほしいと懇請された。健康のこともあり責任を負わされても困ると思案したが、結局承諾し秋田新報に入社した。入社した井上はその日から社説を担当することになった[16][12]

秋田魁新報の発行

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明治21年(1888年)12月、時の青山貞秋田県知事と秋田県会が国道認定問題で激しく対立し、14県議が辞任した。青山知事は県会中止を強行したことにより、明治22年(1889年)1月21日に松方正義内務大臣は秋田県会の解散を命じる事態となった。この一連の騒動について、秋田新報は青山県知事の官僚主義を批判攻撃した。それに対し青山知事は批判を封じるため、同年1月29日に秋田新報の発行停止処分を下した[19][12]





後は、秋田魁新報社に入社し、やがて主筆、さらに社長に就任した[13]




1892年(明治25年)、秋田市会議員に当選した[20]。市参事会員、市会議長を歴任し、また県会議員、県参事会員、県会議長にも就任した[13]

1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1915年大正4年)の第12回衆議院議員総選挙でも再選された。

1916年(大正5年)に秋田市長に選出され、1932年(昭和7年)まで在任した[20]。在任中は小学校の施設充実、商業学校の設立、上下水道の整備、産業振興に尽力した[20]

市長退任後の1936年(昭和11年)からは県教育会長を務めた[20]

戦後、秋田魁新報社長のため、公職追放となった[21]

脚注

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注釈

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  1. ^ 保戸野の町田忠治、楢山の田中隆三と共に「三神童」と称された[4]
  2. ^ 受験当日、隣の席は同郷の上遠野富之助だった。試験に難儀をしている上野に同郷のよしみで答案を融通してやり、上野は合格した。お礼に神楽坂で牛なべをおごってもらったという[14]
  3. ^ しかし秋田県でもコレラが流行しており多数の死者が出ていた。また、4月30日には俵屋火事で秋田市外町の大半が焼け野原と化し[17][18]、9月には風速30メートルの台風が秋田市内の木を倒しすなど、1886年の秋田は災害続きだった[16][12]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 秋田人名大事典 1974, p. 23.
  2. ^ a b c d e f 秋田の先覚4 1970, p. 97.
  3. ^ a b c 人事興信録 1928, イ(ヰ)之部 井(上) イ二七.
  4. ^ a b c d e f g 新野直吉 2007, p. 56.
  5. ^ 秋田県政史下巻 1956, pp. 967–970.
  6. ^ 秋田市史昭和編 1967, pp. 495–499.
  7. ^ 歴代市長および副市長(助役)の紹介”. 秋田市ホームページ. 秋田市. 2024年4月30日閲覧。
  8. ^ a b c 秋田の先覚4 1970, p. 109.
  9. ^ 秋田の先覚4 1970, pp. 109–110.
  10. ^ 秋田の先覚4 1970, p. 110.
  11. ^ 新野直吉 2007, pp. 56–57.
  12. ^ a b c d e f 新野直吉 2007, p. 57.
  13. ^ a b c 細井肇 1916, pp. 19–21.
  14. ^ a b 秋田の先覚4 1970, p. 100.
  15. ^ 秋田の先覚4 1970, pp. 98–99.
  16. ^ a b c 秋田の先覚4 1970, p. 101.
  17. ^ 大川啓「「生きること」を歴史から問う⑥ 焼ケナイモノハ有徳ナル者?」『評論』第221号、日本経済評論社、2021年4月30日http://www.nikkeihyo.co.jp/critiques/view/384 
  18. ^ くぼた旧町名物語・まちの生い立ち”. 広報あきたオンライン版. 秋田市 (2004年11月12日). 2024年10月23日閲覧。
  19. ^ 秋田の先覚4 1970, p. 102.
  20. ^ a b c d 自治制発布五十周年記念帖 1938, p. 247.
  21. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、160頁。doi:10.11501/1276156https://dl.ndl.go.jp/pid/1276156/1/399 

参考文献

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